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カッコいい≒名状しがたきスゴイもの、への感染こそが人生だ

※まえがき。このテキストはマガジン「Our Whereabouts 往復書簡」のいちエントリーであり、いぬじん氏との往復書簡としてお届けしている。(上はいぬじん氏からのエントリー)

めずらしく、いぬ氏からの発信があり嬉しい次第。そして、平野啓一郎の論考を読んでなにか発したくなったということだろう。そのアクションを受け止めたいと思う。

平野啓一郎の本は少し気にかけていた。ただ、なぜ「カッコいい」なのかは不明だったので、ちょいだしのものを読んで、まあわかったようなわからないような、あまり必然性が感じられないような気がしている。スイートスポットというか、(再)発見的概念というか、彼にとっては必然的な検討事項だったんだろう。ただ、読み込めてないしnoteという媒体特性上流し読みレベルしか読んでないし、正面から向き合って咀嚼しようとつとめないとだめな骨太な面はあるような感じがしている。

平野啓一郎といえば、俺にとっては「分人論」が大いに影響を受けた論考だし一時期、それをよすがに博士課程行こうかと真剣に考えていた次第だったし。小説も、たまに読んだりする。頭の良いリベラルな作家という印象で、軟弱な俺はなかなか太刀打ちできないのですが。

さて、カッコいい、ということ。平野の論考すら下敷きにせず思うところを往復書簡してみよう。

平野啓一郎さんの記事を読んで思ったんですが、あくまで、ぼくにとってはだが、かっこいい、ということに憧れるのは危険なんです。かっこよさなんてものを求めて成功した試しがなく、むしろ他人が作り出したかっこよさにとらわれて長いあいだ思考停止に陥ったりするので、かっこよさはぼくにとって害悪なんです。

カッコいいへの憧れは危険であり害悪、ということで結構考えたことがない視点だった。この往復書簡でもよく、自分は人の尺度にあわせ過ぎたりしてしまうとか、そこをどうしても基準にしてしまう自意識のどうしようもなさ、といいうことは述べてきたように思う。

ただ、それを「カッコいい」ということでくくったことがなかったように思う。ベネディクトアンダーソン的な“恥の文化”の影響からか(読んだことなく本棚に眠っている『菊と刀』より)後ろ指を刺されないとか、村八分にならないとか、どちらかというと、失敗をしない、ミソつけない、ということで勝手に同調圧力に向かって行っている感じはある。

カッコいい、というものへはむしろ積極的に感染しようという立場だ。ただし、内から沸き上がるものが伴っていることにおいて。「カッコいい」への感染なくして人生の醍醐味はないようにすら思う。その人のようになれなくとも、カッコいいということを媒介にして活き活きとする面があるのではないだろうか。

いま、自分はカッコ悪いことって、カッコいいことかもよ、と、

カッコ悪い→カッコいい

で検索したら、なんと逆の歌が早川義夫作であるみたいでびっくりした。

そういうんでいうと、いぬじん氏は早川義夫なのであるな。ジャックス。

ちょっと冷やかし?たけど、書簡にあった、カッコ悪く人に助けをもとめてあがく、というのは、とてもカッコいいのではないだろうか。生きる人の決意を感じる。最初、なんだろうこの書き散らかしは(失礼)とも感じたけど、そこには切実さがあり、発せずにはいられないエネルギーがある。そしてそのエネルギーはカッコいい。

私は、そこまでなりふりかまわない状態で突き進めなくなっている、と思う。1年半隠遁したから。仕事も来月から復帰が決まったけど、むしろ頑張らないことをむねに、マイペースを貫くことを守りたいと思っている。ま、それは休む前の自分が「カッコいいこと」と思っていた、こうあるべきとか、こうだと人から賞賛される、みたいな組織人像に振り回されて、それこそいいことがなかったから、なんだけどね。

といいつつ、じゃあ達観した仙人か、というとそうでもない。「なりすまし」してやりたいことが結構ハッキリとしてきた。いぬ氏には伝えている面があるけど、まだそれは発信できるものではない。種火である。ただ、これまでになく大事に育てようと思っているものである。そのために、カネをつくり、生活基盤をつくり、発信基盤をつくり、いろいろと少しずつ歩みたいという思いでいる。

ちょっと前のさんまの特番で、転職した意外な有名人みたいな番組があって、そこにスガシカオが出演していた。スガシカオは30歳で遅いデビューをしたわけだけど、会社員時代の貯金を頼りに引きこもってデモテープつくっていたという時期もあった。スガは番組で、よし行くぞ!ってなった時は、気持ちとお金、だと述べていた。気持ちは自分でいくらでも作れるけど、お金がないと何もできない。もしいま、やりたいことがない時期に自分がいるんだったら、とにかく金を貯めろ、と述べていた。お金のことを語るのはきれいじゃないという思想が今でもあるけれど、このシビアな側面は今まで以上に考えるようになった。

なので、働いて金を得る、そして、働く企業で社会を良くするみたいな人が押し付けてくる幻想は捨てて、金を持って俺自身が社会を良くする、というか楽しく宴会的にする(コンヴィヴィアルにする)行為をできるようにしたいと思っている。どんだけカッコいいこといっても、資本家=企業の論理にそえば株主還元が主で、従業員の就業は単なる契約なので、そこに過剰に意味を見出すのは問題になると思えたので。

ま、俺もカッコいい、かどうかはわからないけど、人のやってることに過剰に意識的だし、そういうのは抜け切らない。あいつがあんな社会に対して発信しているのが、偉そうにしているのが気にくわない、俺のことは無視したくせに、みたいな怨念はいまでも俺を突き動かしているし(笑)ただ、そういうルサンチマンは忘れないで俺なりに推進力にしたいと思っている。若い頃ほどダイレクトではないけれど、抜け切らない怨念というのもあるようで。

そんなことを、再来月の大阪ナイトにでも語らおう笑

ではでは。Dag.


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