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キャリアとは「生きざま」と師匠が言っていた。で、俺は?

週末は久しぶりに真面目にさる研修を受けていた。仕事などとは一切関係なく、自治体の提供する研修である。そういうのがあるのだ。研修自体は学習論的にはイケてないが、そうだからこそ興味深く新鮮に受講出来た。これについてはいずれまた話す機会もあろう。さて、

先だっての書簡では、いぬ氏から私にとってのキャリアとは?とお尋ねを受けた。そりゃ、こちらも聞かれるわな。いつものようにダラダラと思い出ぽろぽろしつつ書く。

キャリアという言葉は本当に難しい。字義的な定義では「轍(わだち)」と言うらしく、車輪の後のように、自分の歩んできた軌跡ということのようだ。馬車の通った後みたいなことなんでしょう。キャリアへの関心はみんな高いから本屋にはキャリアと書いてあるなしに関わらず、キャリアを考える本というのはたくさんある。ニーズが高いということなんだろう。学問ではカウンセリング心理学がベースにありつつ(職業指導が原型か)人的資源としての経営学の分野とか、労働社会学の分野とか、まあ学際的という感じでもある。ゆえにキャリア論とは言ってもキャリア学という学問領域としては語られない。

で、俺個人もキャリアという言葉や概念には長らく興味があり踊らされ続けている。キャリアということを考える発端は外資系やらコンサルやら今はさる部品メーカー人事をしているぽい大学時代の同級生によるものだった。当時2000年ごろだったか、就活前に仕事考えるセミナーに行こうよと言って神保町の一橋大だったかに連れて行ってくれた。なんでもそいつの親父さんも人事マンで、パソナのファウンダーの南部氏と人事コンサルをコンサル足らしめた高橋俊介さんは注目しとけと言ったらしく、そのセミナーには高橋俊介さんが来ていたというわけだった。当時は俊介さんは勤めてた会社の社長を辞めてSFCの教授になって独立したばかりだったかなと思う。俊介さんはたくさん本出してるがまとまってるインタビューがあったので貼っておく。(仕様か、リンクが生成されない)

https://www.movin.co.jp/post_consul/interview_takahashi.html

このセミナーに出た時にキャリアという概念を知った。で、俊介さんに、とっても興味を持った。この人の語り口や歩んできた経歴も惹きつけられた。最初の会社を辞める時、働くって苦しくしかないのかとか働く意義を考えて、SFC受けたくて受験しようと思った。カネが用意できないのでやめた。そんでいろいろあって(そこから10年ほど経つ)、俊介さんには新婚旅行の旅先でお名前を出させていただいたらレストランでハネムーンケーキを頂けるという僥倖に恵まれた。事実なので盛ってはないけど、そこまで彼と深くお付き合いがあるわけではない。ただ、御礼は丁重にお伝えした。

で、タイトルにした「生きざま」とは、俊介先生のパートナーである方の言葉で、私の数人いるアカデミア師匠のなかの1人である。

kurolabo.com/common/pdf/info/invitation.pdf

あえてマニアックなリンクにしておく。

師匠からは大きな影響を受けた。最近は連絡とれずご無沙汰だが、生きる人間としてのロールモデルのひとりである。アカデミアではそういう存在は宮台真司しかいないと思っていたが、30を超えてそういった存在を持てたことはとても幸せなことである。

だが、前にも書いたことだけど、近頃ここ数年はキャリア論含めてアカデミックにとらわれすぎていたのかもしれない。いっそ捨て去ってみたら楽になって発想も自由になってきた。いぬ氏はぺりおのアカデミックなところを個性のひとつに入れてくれるのだけど、まあそれは嬉しいけれど、最近はそれが自身の囚われになっていたのでそういう世界からは一歩引くことにしている。書籍もバンバン処分している。新しく買うこともなくなった。前は月に数万円は学術書が増えていたけれど。

結論がなかなか来ないのがこの往復書簡の良さであるが、そろそろ思い切って書いてみる。まとまらないので箇条書きにする。

私にとってのキャリアとは

・(学術的な)概念としては、囚われ続けてきて離れられなかったもの。

・今の自分について言えば、キャリアなどどうだって良いもので考え過ぎてもしゃあないというもの。

・最近思うのは、キャリアの鍵は「守破離」なのかもしれないということ

上から補足をする。

一つ目はそのとおりで、長らくキャリアに囚われ続けてきて大真面目に接しすぎてきたなという気持ちが今は強い。キャリアという言葉が足かせになっていた。学問的な囚われでなくても、実仕事ではロスジェネ的な上昇志向がビルトインされていて、仕事で自己実現せねば、もっと年収高めねば、すごろく的に階段登らねば、と思っていた。

二つ目は、キャリアと言ったって自己研鑽とか無理にし過ぎることでなく、あくまで好き勝手生きることが上位だなと考えが移り変わってきたことがある。少なくとも、仕事のみをキャリアを考えることは自然と減じてきた。

三つ目は、そうは言ってもこのプロセスを経てのこの感情なので、よく言われる守破離ってことなのかなと。俺の場合でいえば、キャリア概念に囚われ(守)それを捨て去ろうとして自分なりに思考し始めた(破)ということかもと感じていて、もひとつ先に「離」のプロセスがあるのかな。すでに「離」の段階とは思えない。

まあ、結局いぬ氏の書いてくれたスタンスとほぼ同じだろうとは思う。株式会社俺とまでは思わないので、俺流に言えば「好き勝手に生きること」、それにトライすることが今の自分のキャリア(観)である。

書きすぎて、仕事とお金ということまでは至れなかったので、ズルしてそのまままずお返ししたい笑

「仕事とお金」について、いぬ氏の思うところを教えてください。

といいつつ、先出ししておくと、私の考え方は⬇︎の橘玲の考えに近い。近頃は人的資本の極大化(仕事で稼ぎ切る)という発想は下火になりつつある。子供ができて家庭のウェイトも増えたし、自分の時間配分やリソースをどう振り分けるかというポートフォリオ的発想になってきた。

豆だが、よく言われる年収800万円の幸福度の境の話は、脳科学芸人の中野信子が1500万円という説をワイドスクランブルで唱えていた。なんでもその額になるとそれ以上の人たちの中での序列とか順位に一喜一憂するとか。隣の人が3000万円稼いでますとなると2800万円でも負けたということでつまらない気持ちになるということなのかね。

Dag.

追伸

そういえば、いぬ氏とはたまに語り合っていたが、もらった書簡にあったいろいろな自分、という概念はとても好みで、多元的自己というものや分人論(by平野啓一郎)という考え方は研究的に突き詰めて見たいと思っていた時期がある。今は研究するくらいなら実践してやろうというモードに変わってきたのだがね。

あと、書いていて気づいたが、俺はちょっと早めに「中年の危機」を迎えて、そのマックスの山は超えてしまったのかもしれない。これはちょっと嬉しい。そう思うと長い育休のかいがあったというものだ。きっと直面しているであろう、嵐の大野くんにも幸あれ。










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