およそ500日の別ライフを終えてひとまず


※まえがき。このテキストはマガジン「Our Whereabouts 往復書簡」のいちエントリーであり、いぬじん氏との往復書簡としてお届けしている。(上はいぬじん氏からのエントリー)

今日は7/30。社保メリットとか考えて育休復帰日を8月2日にしているのであと3日という感じになっている。そこでモリモリ、娘と遊ぶ日として炎天下のなか出かけた。

午前は初のルミネtheヨシモトへ。俺はノンスタの石田さんが大好きなのだが、はじめて生で見られて感激だった。あと、峯岸みなみマジ可愛い。アイドルって存在感凄いです。そして午後はガスト飯を挟んでオフロスキーこと小林顕作さんの絵本朗読も行ってみたという子守ハードコアな日であった。ま、やることがあるほうが娘も持つのでありがたいというのはある。暇すると機嫌悪くなるし寝つきも悪くなるのよね。

で、あと2日。当初はなにしようかなあラストの日、とか思っていたのだけど、なんと急遽妻方の祖母が亡くなり、明日は葬儀で遠方まで行くことになった。ついでに実家も立ち寄れる距離なのでそれが育休最後の最後の道程となるかな。

そう、約500日、1年半の育休日々もひとまず終了を迎えようとしている。いろいろと浮き沈みもあり、心情グラフも書けそうではあるが、個々のエピソードはいろいろとあったので多すぎて忘れてきている。終わりよければ良しな感じになってきているのは良かった。状態としては概ね良好なままに復帰できそうである。

ざっと書くと、育休の折り返しになる10ヶ月目くらいまではいろいろフラットになれず、無理したりいろいろ試行錯誤して、仕事復帰もマジしたくない、むしろしないかもの方向性を考えていた。大学病院の講座のマインドフルネス教室とかも出てみたり。(いちおうことわっておくと健常者用の実験プログラム)それが、今年の年始になるころ、急にフラットに世界をとらえる感覚が出てきたように思う。

繰り返しになるかもしれないが、サッカーと投資とまちづくりとあと育児という、自分にとっての芯になりそうなものが定まったのが大きい。なにを大事に考えて、どういう風になっていきたいのか、という自分尺度がようやく見えてきたというのがある。それが育休によるものか、加齢による諦めなのか、おそらくはどちらだけでもここまで気持ちが落ち着いてはこなかっただろう。

さて、いぬ氏の書簡ではこんなことが書いてあった。

思うに、ぺんぎん氏は性根がまっすぐなのだ。どうも自分は、本当は野蛮で下品な本性なのに、それを隠そうとしたり物分かりがいいような顔をしたりするきらいがある。それでずっとその野蛮で下品な自分を隠し続けられるならいいのだが、だんだん我慢ができなくなって暴発することが多く、しかしその暴発の仕方が、中途半端に社会性を保とうとする結果、とんでもなく気持ち悪い感じになるのが常である。

のちに続く文体がどんどん森博嗣?調になっていき、ちょっと自分には捉えきれなかったのだけど、ここは感じることがあった。性根は捻じ曲がっているとは思うのだが。

野蛮で下品な本性があって、それを隠しているうちに暴発してしまう、という。これ、俺もだし誰もが似たことを感じているのじゃないだろうか。そして、それは他人を尺度にしたり比較してしまうことが関連があるのじゃないかとも思う。社会性、という言葉もあったけど。

で、誰しも持っている心性だとしても、イチローとか中田ヒデとか、最近だと大谷翔平とか久保建英とか、ああいうスポーツ突き抜け系はあまりそういうの感じさせないよね。イチローのように職人的とも思える人もいる。自分の自己ベストを更新しようと尺度が自分の時間軸にあるというのがあるのかなあとも思う。

じゃあ、大多数のぼくら相対で生きる人間はどのようにその野蛮で下品な心性と付き合っていけば良いのだろうか?思うに人間の知恵はそういうものを飼いならすいろいろなやり方、大きくは文化を築いて来ているのではないだろうかと。人類学的になれば祭りとか儀式、まちの盛り場とかそういう俗な場で解消してきたのだろうし。大きく出たけど、そういう温故知新とか復古的なものは本当に必要で、だからそういうものを「つくる」ように動いていきたいとやっと重い腰が上がってきたのかなと考えている。俗っぽいけどサッカー、投資、まちづくり+育児というのは俺のなかではこれに関連する一連の活動としてやっていきたいと思う次第。仕事はそのための生活インフラでしかない、自己実現とは別物だとハッキリと位置付けられたことが1年半の一番の収穫であった。

はい、いつもの我田引水自分語り、ですが、ちょっと書いててコメントに記した書きたかったことと関連を感じた。

スマホからの覚え書き的なコメントになるけど、次のエントリではいかにじぶんのメディア環境が仕事労働に偏った情報になっていたかに気づいたことを復帰前ラストエントリとして書きたい

なんかねえ、育休しててふれる情報ソースが変わったことで思ったんだけど、「ビジネスマン(パーソン)」という人を対象にした仕事とか労働に関わる情報がやたらあるし、それはあまり生活を豊かにしないのなあと、極私的には感じたことを記しておきたかった。特に処世術とかキャリア関連、今まで自分がとりわけ多く接してきた情報は「無駄」と切り捨てても良いかもしれないとすら思う。

育休しているとテレビソースはワイドショーとEテレこどもワールドで、ラジオはまあ、物語的世界な生活世界をお届けするほっこり系情報をたまに聞いて、ネットではヤフーニュースとたまにはてブ、もっぱらツイッターのTLということでやってきていた。Facebookはやめてた。ビジネス系情報への偏りという点で、育休中に見ると精神的不幸になるものという予感がありそれは正しかった。

ビジネス情報といっても、投資とかに活かせる情報にフォーカスするとそれは意外と興味深くとらえられた。単にカネづくりに繋がるからね。今後はこの視点をメインに日々の仕事でも触れていこうと思っている。いかにサバイブし立ち回るか、そのために身につけるべきスキルや処世術は、というのはもう散々たくさんだと。

とりとめもない自分語りになったけど。阿呆とか頓馬とかマヌケとか、なんでもいいけど、俺がいいたいのは「楽しもう。楽しむことセンタードでいこう。なかなか楽しめないとしても、楽しめるように知恵を懲らそう。それでもどうしてもダメな時もあるだろうが、楽しくなる志向だけは持ち続けよう」ということ。最初、書いてて「なんか自分だけの活動つくろうぜ」とか「やる、動く主義でいこうぜ」みたいなことを書こうとも思ったけど、そういうことの中心にあるべき「楽しさ」だけでいいんじゃないかと思った。なにもつくらなくても、仕事一生懸命でもそうでなくても、ただダラダラでも良い。ただ、楽しくないのはきっと「悪」なのだ。

俺は、仕事で自己実現とか成長とか、組織開発な職場とか、そういうベクトルで何年か取り組もうとやってきた。でも、それってそもそも俺の価値観でなかったみたいなんだよな。こういう「正しい」マインドは、それ自体は盛り上がるし、自己効力感も湧く。俺もその感覚は知っている。だけど、「楽しい」かったかというと必ずしもそういう時間は長くなかった。むしろいつも自分追い込んだり上司や同僚にケツ叩かれたり、メディアからは成功者とかのメッセージが垂れ流されてそれを額面通りに受け取ったり受け取らなかったりで汚染され。

そういうの関係ないのよね、ほとんど。自分の人生の彩りを豊かにするかどうかということに。こういうスタイルが関係あるひとはすべからくこういう価値観を中心においた生活になってて、仕事でバリバリ稼いだり社会的地位を築いたりしていて、螺旋的に“上昇”スパイラルで生きていくようになれている。でも、なかなかそうでない人は心性を根っこからは洗脳出来ない。

つらつら長々書いたのは、いよいよ復帰間近で、ほっておくとやはり元の価値観とか出てきそうで自己嫌悪になりそうだから、それが怖いからです。でも、前よりは人関係なくやりたいようにやる、というマインドを持ち続けられそうにも思ってます。基本はカネ。カネで経済的自立を果たせればこのあたりのことは終わり、なんだけど、それはなかなか現実的にはならんので、自己活動というのを大事にやろうと思ってます。たとえばまちづくりとか研究していることを仕事と絡めたいというスケベマインドはなしで。投資のことは人には言わない。サッカーは家族でスタジアムにいく。育児は、それなりに苦労しながら出来るだけこどもの「楽しさ」にフォーカスして見る。みたいな感じで生活して行こうと思うです。

これからもよろしく。9月に会える時を楽しみにしてます。

dag.

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