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日本一のその先 ハスカップファーム山口農園〈北海道厚真町〉

北海道ならではの果実、ハスカップ。
その栽培面積日本一を誇るのが
かつての一大群生地・勇払原野に位置する厚真町です。

厚真町がハスカップ日本一になったのは2013年。
その裏には
「おいしいハスカップを届けたい」と願う
親子2代にわたる努力がありました。

それから7年。
山口さんが「日本一の先」に見据えていたものが
いま少しずつ、実を結び始めています。

おいしいハスカップで 厚真町を元気にしたい

厚真町でハスカップ栽培が始まったのは昭和50年代半ばのこと。
苫東地区の開発をきっかけにハスカップの保全活動が活発化し、多くの農家が自分の庭や畑に移植しました。
山口善紀さんの母・美紀子さんもその一人。
両親とともに昭和53(1978)年から3年かけて約3,000本を持ち帰り、そのうち1,000本を山口農園の敷地に植えました。

ところが美紀子さんはハスカップが大嫌い。
野生のハスカップとなれば、渋いもの、苦いもの、酸っぱいものが大半で、ごくまれに甘酸っぱい実があるぐらいです。
「こんなにマズかったらいつか人が離れてしまう。なんとかおいしいものにならないか」、そう考え、ある作戦を思いつきます。
美紀子さんは当時小学生の山口さんと弟にこう告げました。
「苦いハスカップに印をつけておいで。1本見つけたら100円あげる」。
印のついた苦い木を抜いていけば、最終的に甘いハスカップだけが残ると考えたのです。

善紀さんは振り返ります。
「酸っぱい実は震え上がるぐらい酸っぱいし、苦いのに当たれば舌が痺れて次の実が食べられないほど。だんだんイヤになって中学生の夏には『もうやらない』と宣言したんです。そうしたら母は『わかった。じゃあ1本500円!』って(笑)」。
こうした家族の協力もあっておいしい株だけを増やすことに成功した美紀子さんは、やがて農協からおつかいもの用ハスカップの指名が入るほど町内有数の栽培農家になっていました。
一方で大人になった山口さんは王子製紙森林資源研究所に就職します。
「そこに入ったおかげで母がやっていたことが『選抜育種』というすごい技術だと気づきました」。

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山口農園の5代目・山口善紀さん。子どもの頃はこうしてハスカップの味見役を命じられました

その後、山口さんは10年続けた仕事を辞め、農業を継ぐことになります。
「そのときに決意しました。日本一の製紙会社を辞めたからには日本一のハスカップ農家になろう。そのためにまず厚真町を日本一のハスカップ産地にしよう、と」。
就農した05年当時、厚真町の栽培面積は美唄市、千歳市に次いで3番目でした。

まち全体で優良系統を生産できる態勢をつくれば生産者も増えるだろうと考えた山口さんは、お母さんと祖父母が育てた2系統の品種登録に挑み、09年に晴れて「あつまみらい」「ゆうしげ」が国内2番目・3番目の品種として登録されました。
個人農家によるこの快挙は話題となり、苗木を分けてほしいという引き合いが数多くありました。
そこで山口さんは町内生産者にだけ苗木を提供し、さらに「町外へ持ち出さないこと」を条件に増殖を許可します。
これには周囲は大反対!
普通なら苗木は売っても繁殖は許可しないもの。
美紀子さんさえ「バカなことを」と見放す始末でした。
けれども山口さんは「みんなにバカと思われるぐらいがちょうどよかった」と言います。「僕が権利を囲い込んで儲けに走ったら、きっと誰も応援してくれなかったでしょう。それより母のおいしいハスカップを広めることが日本一の産地をつくる近道だと思ったんです」。

この思いに応える形で町と農協は苗木購入の助成制度を整備。
制度が追い風となって次第にハスカップ生産者が増えていきました。
そして就農から9年目にして厚真町は栽培面積日本一を達成。
05年に約60軒だった生産者は100軒を超えました。

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第10回農業賞受賞当時の一枚。右から3人目が母・美紀子さん、善紀さんを挟んで妻・さゆりさん

面積拡大と並行して山口さんが妻さゆりさんとともに力を注いだのが、厚真産ハスカップの魅力発信のための加工販売でした。
11年に皮の黒いユニークなクレープを開発、14年には移動販売車「ハスカップカフェ」をオープンします。
こうした取り組みが評価され、山口さんは第10回コープさっぽろ農業賞(17年)で大賞に相当する北海道知事賞を受賞しました。

しかし翌年の9月6日、胆振地方中東部を震源とする最大震度7の巨大地震が北海道を襲います。
 「そのとき僕はたまたま茶の間にいました。茶だんすの扉はすべて開き、ガラスの割れる音が聞こえ、どうすることもできずテーブルにしがみついていました」。
夜が明けると見慣れた風景は一変していました。
山は崩れ、土砂がハスカップ畑の一部をのみ込んでいました。
幸いにも山口さんにも家族にもケガ一つありませんでしたが、この巨大地震により町内の1万本を超えるハスカップが被害に遭い、山口さん自身も植栽本数の1割にあたる500本を失いました。

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北海道胆振東部地震で土砂にのみ込まれたハスカップ畑(2019年7月撮影)。現在は土砂が撤去され、新たに300本を改植しました

けれどもいつまでも下を向いていたわけではありません。
ライフラインがストップする中、山口さんは発災2週間後に予定されていた札幌の催事の出店準備を始めます。
商品製造もままならない状況でしたが、キッチンカー仲間を頼って加工できる場所を借り、製造にこぎつけました。
最初は出店に反対していたさゆりさんも、山口さんの諦めない姿に覚悟を決め、出店をバックアップしました。
「10人いたら9人はムリと言ったでしょう。でもみんながムリと思うところに光があるんです」。
催事の模様はテレビや新聞で報道され、被災地を応援したいというお客さんが詰めかけました。
それを機に全国の百貨店から催事の声が掛かるようになります。
「僕が日本一を目指したのはまちおこしのため。厚真町を知ってもらうには『日本一』が必要であり、それがハスカップでした。地震で図らずも厚真町の名は全国に知れ渡りました。でも『震度7のまち』で終わらせたくない。厚真町には日本一のハスカップがあることを知ってもらうチャンスにしたい。そう考え、とにかく動きました。ハスカップ生産者は高齢の方が中心です。復興には長い時間が掛かります。だから希望が必要でした。じゃあ希望って何?それはやっぱり需要なんです。待っているお客さんがいることを生産者みんなに知ってもらうことなんです」。

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収穫作業をする美紀子さん。収穫適期を逃さないよう雨の中でも作業を続けます

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ハスカップの実はとてもデリケート。傷つけないよう、一つひとつ手で摘み取ります

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ブルーム(表面の白い粉)が取れないよう、選別作業も慎重かつスピーディーに

全国各地の催事のオファーに応えられるよう、昨年山口さんは自前の加工・販売施設「ハスカップカフェラボ」をオープンしました。
加工品の生産力を高めて販売力強化を図り、同時にスタッフの通年雇用も進めました。
原料も自社農園でまかないきれないため、町内産ハスカップを仕入れるようにしました。
厚真産米100%使用の新商品「ハスカップみたらし」を開発し、現在はハスカップを使った佃煮の開発に取り組んでいます。
加工・販売態勢を充実させるために大規模な投資も行いました。

そんな矢先に立ちはだかったのが新型コロナウイルスでした。
春に出店を予定していた催事はこの影響で軒並み中止に。
営業に出たくても出られず、目の前が真っ暗になりました。
それでも「いまできることを、やるしかない」。
山口さんは夏に予定していたネットショップを急きょ3月に前倒して開設。
SNSでも話題となり、順調に売上を伸ばしています。
「これまでは対面でしか販売できなかったものが、全国どこへでも距離を超えて厚真のハスカップを届けられるようになりました。切羽詰まって立ち上げたネットショップですが、逆に新しい可能性を広げてくれています」と山口さん。
「これまでもいろんなことがあり、そのたびに乗り越えてきました。今回も絶対に乗り越えてみせます」。
何度も消滅の危機に瀕しながら生き残ったハスカップのように。力強く、力強く。

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2019年5月に誕生したハスカップカフェラボ(厚真町表町53-6)


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今年もハスカップ狩りを7月に開催予定。「3密」を避けて予約制となる予定(満員の場合はご了承ください)

取材・文・編集/長谷川圭介
撮影/細野美智恵、工藤了


山口農園さんの商品・イベントに関する最新情報はこちらをご覧ください!ハスカップファーム山口農園さんのTwitter(@haskapcafe)


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