私の考えるキャラメイク

小説を書くとき、私はプロットは書かない。何なら、書き始めた時点では展開どころか、ラストも決まっていない。必ず決めていることといえば、「ハッピーエンドにする」ということくらいだ。

プロットを書くことに挑戦したこともあるのだけれど、上手くいかなかった。プロットを書き起こした時点で、話が完成してしまったような気になってしまうのだ。書いているときのワクワク感が得られなかった。

何故だろう?、と考えてみたら、私の書く小説はキャラクターありきだからだという結論に辿り着いた。

これはあくまでも私個人の創作スタイルなので、そこは予めご了承頂きたい。

私は、キャラクターは『生き物』だと思っている。生物学的な話ではなくて、私にとって、自作に登場するキャラクターは全て、現実に生きている人間と変わらないという意味だ。

生活している場所が、私の居る現実世界か、私が用意した仮想世界か、という違いがあるくらい。

勿論、名前や外見、ある程度の性格などは設定するけれど、私の仕事は基本的にそこまで。

私の作り上げた『舞台』で、キャラたちは皆それぞれ生きているから、当然各々の生活や行動パターンがあり、感情もある。我々人間と同じだ。

「カフェに行こう」と誘われたとき、喜んで応じる社交的なキャラも居れば、引きこもり気質で逃げるように断ってしまうキャラも居る。

社交的なキャラだって、何か嫌なことがあって苛立っているときは誘いを断るかも知れないし、引きこもりなキャラも、心を許した相手からの誘いなら応じるかも知れない。カフェだけのつもりが、その後カラオケだったり、相手の自宅へ行く流れになるかも知れない。

つまり同じような場面でも、キャラの性格やそのときの心境など、様々な要素が重なることで、展開はいくらでも変わる。

これは現実世界でも言えることで、人というのは同じ状況下でも、そのときの心理状況によって感情や行動が変化することは、とてもよくある。このコロナ禍において、様々な人の新たな一面が見えたという人も、多いんじゃないだろうか。

だからこそ、私はキャラたちの一瞬一瞬の感情を大事にしたいと思っている。

普段なら笑って受け流す台詞に対して怒ってしまったのは何故? ああ、相手のこの発言が心の傷を掘り返してしまったのか。その過去はどんなものだった? 今までどんな風に向き合ってきたの?

そんな風に、その都度キャラと対話するようにしてストーリーを書き進めていく。インタビュアーや、ドキュメンタリー監督のような感覚なのかも知れない。

プロットを書いてしまうと、キャラの行動をどうしても予め制限してしまうことになる。すると途端に、キャラたちは私の中で、操り人形のようになってしまうのだ。彼らの心の声も聞こえなくなるし、結果筆も進まなくなる。

だから私はこの先も、キャラたちには感情のままに動き回ってもらいたいし、それを追い続ける書き手でありたいと思う。



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