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新たな目的地へ

8月末―。

今となっては住み慣れたホームステイ先を後に、私は荷物が入ったダンボ―ルを抱え、こちらで知り合った日本人の知人宅へと歩き出した。車なら何ということのない距離だが、段ボールを抱えて徒歩で移動するとなると話は別だ。

1人で引っ越しをするには、少々荷物が多すぎた。

1年間いて良いというステイ先のムッシュの言葉を真に受け、日本から沢山のものを送ってもらい過ぎていた。


息を切らしながらベルクール広場を抜け、人混みの中を歩き、大きな橋の通りで信号を待ち、ローヌ河の向こうにあるアパルトマンの最上階まで3往復。

今日からここが私の住まいだ。

こんな私に、快く部屋を貸してくれた彼女に、本当に感謝している。


――仕事がなくなり、部屋を解約した私には、もはや何も残っていなかった。アルザスでの葡萄摘みの返事も、まだ来ていなかった。語学学校も、部屋を探している間に終わってしまった。


何もかもなくなり、日本にいるフランス語の先生は

「もう日本に帰って来なさい。日本はフランスのように君を傷付けたりしないし、美味しいケーキだってこっちにも沢山ある。」

とメッセージが入っていた。


それで、一度先生に電話を掛けた。


日本の携帯電話からだったので、高くつくのは承知していた。

先生は

「フランス語、上手になったね!」

と、明るく私に言った。


話を聞いてもらっていたら、なんだか泣けてきて、私は屋根裏のような小さな部屋の片隅で、携帯電話を耳にあてながら涙を流していた。


フランス語もそこそこ話せ、希望や夢をいっぱい胸に詰め込んで日本を出てきた私は、予想外の自分の有り様を、日本にいる家族や仕事仲間に見せたくなくて、何とかここまでやってきたが、折れそうな心は「もう限界!」と叫んでいた。


それでも先生に電話をしたら、もう少し頑張りたいと思うようになったのだった。


そんな折、共同生活を提案してくれていた中国人の友人が、ベルクール広場の近くにあるサンドイッチ屋での仕事を紹介してくれた。小さな小さな、安くてとてもおしゃれとは言えないサンドイッチ屋だ。履歴書こそ持って行ったものの、私は「そこまでして、リヨンにいる必要があるのか?」と思うようになった。

それならもういっそのこと、このまま大好きなアルザスか日本人が多くいるパリに行って、新たな仕事を探そうか…そう思いなおした。

パリなら少なくともリヨンよりは仕事が見つかりそうな気がした。(実際はわからないが)

それで『もうこの街を出よう』と思ったら、なんだか今まで憎らしく思えたリヨンの街が愛おしくも見えてきて、折角ならリヨンを出るまで、思う存分満喫してから街を離れよう!と思ったのだった。


それからというものの、私は急にあちらこちらへ出掛けるようになった。


一度行きたかった、湖の街、アヌシー。

学校のクラスメイト達との食事。

現地で知り合った日本人の友人達との食事。

リヨン市内のケーキ巡り…。


この風景を忘れたくない…


そんな思いで、私は朝のジョギングをローヌ河のほとりですることを日課にしたのだった。

まだ朝陽が昇ったばかりの中靴紐をしっかり締め、どれだけ走っただろうか…。

あの時のスプリンクラーから出る水しぶきの眩しさ、通り過ぎる車の音、太陽の光…

全てが今でも目に焼き付いている。


そうこうしているうちに、ようやくアルザスの葡萄農家さんから連絡が来た。日本を出る前に紹介してもらっていた農家さんだったが、フランスに来てから連絡が取れずにいた。パソコンの調子が悪かったそうだ。

念願の葡萄摘みはお天気次第だが、9月下旬から出来るだろうということだった。正式に日にちが決まったら、それに合わせてリヨンを出ることになった。その前に、台湾人の元クラスメイトとお別れの食事会をすることになった。

「折角だから、あの店行ってみよう!」

彼らが連れて行ってくれたのは、その辺りで人気の、和食レストランだった。以前、食べに行こうと思ったら、満席だった店だ。

一足先に混雑具合を見に行った友人から電話が掛かってきた。

なんと、求人の貼り紙があったのを、友人が見つけたのだ。

私は友人に勧められるままに、労働条件を尋ねた。

ここはこちらで出来たフランス人の友人達が好んで来ているというレストランだっただけに、私も少し興味があったのだ。

しかも、基本はフルタイムで、休みたい時は休んで良いということだった。


――私には、もう十分な資金がなかった。

フルタイムで入れるのは有難かったし、休みも自由に取れるのが尚良かった。それで、新たにアルザスかパリで仕事を探すつもりだったが、ここで働きながら考えよう!と決めたのだ。休みも取れるし、旅行も行ける!

こうして、ヴァンダンジュ(葡萄摘み)の後に、ここで働くことになった。


新たな希望を胸に、私はPart-Dieu駅(リヨンの大きな駅)に来た。

手には大きなスーツケース。ショルダーバッグとノートパソコンを持って。


リヨンを出る日、私はお世話になったステイ先のムッシュに渡すものがあり、見慣れた広場の近くでムッシュと待ち合わせた。

ムッシュは私の荷物を見ると、大変だからと、ここPart-Dieu駅までメトロを乗り継いで荷物を持って見送りに来てくれた。色々あったけれど、良い思い出…。最後は笑顔でお別れをした。


こちらで知り合ったフランス人の友人達には、何も告げずにいた。

後に、もう戻らないと言っていた私が「リヨンに戻って働く」ことを電話で知り、大声をあげて喜んだのは、紛れもない


現在の夫なのだった。

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