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21グラムの魂に夢を詰める

小さな器に、大切なものから。

人生において大切なものは何でしょうか。家族だったり、恋人だったり、生き方だったり。 誰にでも譲れない大切なものがあるものです。

ただ、そんな大切なものも、その時々には分からないものだったりします。またタイミングによって大切なものは変わってくるものです。

人生を楽しんでいる方はこの優先順位がクリアだと感じます。何が自分にとって必要なのか、逆に何が不要なのか。それが明確なのです。

その点、私は全くクリアではありません。仕事の優先順位付けはできますが、自分の人生の優先順位となると途端に迷ってしまうのです。

一方で、人生は限られた時間を消費しているものです。大切なものをなるべく早く見つけた方が、残りの人生を幸せに過ごせるのは間違いないですね。

ということで、今日はそんな、人生の優先順位についてのお話です。

21グラムの魂

人の魂の重さをご存知でしょうか。21グラム(= 1オンス)と言われています。 これは1901年にアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが調べて発表した数値です。

医師のマクドゥーガルは、今際の淵にいる6名の方々の体重を、生前と亡くなった後で比べるという調査をしました。魂は質量があると考えたのです。

その結果得られたのが、平均21グラムの質量の減少ということです。ここから、魂の重さは21グラムとしたのです。

もちろんこの21グラムの減少は、水分の蒸発による減少や、当時の測定器の精度による測定誤差と言われています。

ただ、この21グラムの魂の重さというのは、100年経っても語り継がれているものでして、人の心を捕らえて止まないというのも確かです。

21グラム。 500円玉ちょうど3枚分の重さです。この21グラムに、我々の80年の歴史が刻まれると思うと、その軽さになんだか溜息が出てしまいます。

私たちの魂の指先に乗る軽さ。この21グラムは、人生の儚さと切なさを象徴する重さであると感じてしまいます。

壺の話

21グラムに人生を詰め込むと思うと、大切なものを見極める心がどれだけ大切なものか、なんとなくイメージができるというものです。

ところで、次は『壺の話』は聞いたことはありますか。

これも、2ch発祥の出典不明なお話ではあるのですけれども、何回もコピー&ペーストされている話なので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

典型的なコピー&ペーストの文章を載せておきます。ご存じの方は飛ばして下さいませ。

「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。
砂利を壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
一人の生徒が「たぶん違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の下から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺は満杯か?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと水を注いだ
彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しいときでも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込むことは可能だということです」「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこではないんだよ。この例が私たちに示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないということなんだ」
君たちの人生にとって「大きな岩」とは何だろう、と教授は話しはじめる。
「それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり……。
ここでいう「大きな岩」とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君たちはそれを永遠に失うことになる。
もし君たちが小さな砂利や砂、水など、自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、君たちの人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体を失うだろう。」

このお話も長く愛されているお話です。コピー&ペーストではありますが、それでも何万回もそうさせるのは、物語に琴線に響く何かがあるからでしょう。

21グラムという小さな器に、大切なものから詰め込んでいくことが如何に大切なことか

何が大切なのか。何を目指しているのか。どんな人生にしたいのか。それを時々立ち止まって考え直してみることは、やはりとても大切なことなのだと思います。

主演の座を降りるタイミング

これは個人的に悩んでいることではあるのですけれども、様々なことの「主演を諦めるべきタイミングはいつだろう」と考えています。

生きている時間が長ければ長いほど、自分に関わる大切な人の数は増えていきます。その中で、いつまで自分が主演でいようとするべきか悩ましいものなのです。

仕事を始めたばかりの時は、自分が能力を伸ばし、自分がもがき、自分がやり遂げる。それだけを考えて働いているものです。自分が主演の舞台なのです。

一方で、長い目で見ると、無情にも他の人との能力の差は出てくるものです。それを私は、諦めとして捕らえるのではなく、主演の座を譲り助演で生きていくべきタイミングが来たのだ、と考えています。

また家庭でも、お子様のいらっしゃる方は非常にイメージしやすいかなと思うのですが、お子様が育っていくにつれて、自分の人生はどんどんと助演にシフトいくものです。

思い返せば、自分のことだけを考えて生きられた時間は幸せなものでした。ただその第一幕は既に終わっており、気付けば舞台全体の動きを見て、自分の役どころを決めないといけない第二幕が開幕していた感覚です。

とは言え、どんな役を演じることになったとしても、それは自分の人生と言う一つの舞台なのですから、満足する形で締め括りたいなとは思います。

それに、いつまでも劇の中の主演にこだわる必要もないのです。これも、やはり何を大切にするのかと言う優先順位、価値観の判断だと思います。

小さな舞台ながらも、一番大切なものを、一番輝くところに配置する。劇が終わった時に、良かったなと思えるような小舞台を。

そんな演目を演じられたら、それが素晴らしい人生なのではないでしょうか。

まとめ

ということで、人生において何を大切とするかという判断は大事だよね、というお話でした。

本当に人生は混沌としていて、大切なことが何か分かっていないと簡単に器は一杯になってしまうものです。

これに唯一絶対の正解なんてありませんし、自分の中の答えも刻々と変わります。その時々でもがき続けるしかないのです。

最後に、話題のシン・エヴァンゲリオンのお話を少し。

本当は観に行きたくて仕方がないのですが、身の回りの方々が予防にもの凄い配慮をされているので、まだまだ自分を優先して観に行くことは出来なさそうです。

このエヴァの監督の庵野さんの記事を観て、若輩者が大変失礼ながらも、ああ人間としてものすごく成熟されたなあと、強く感じたものです。

昔の庵野監督は尖りまくっていて、作品が最高のものができれば、何もいらないというような発言が多かったのを覚えています。

ですが、今では会社の経営者として、立派に作品に関わる全ての人達の幸せを願っていらっしゃいます。

今回の話で言えば、一歩引いて、全体を見渡すような役回りに身を置かれたのでしょう。とは言え、まだまだ庵野劇場での圧倒的な主演感はありますが。

庵野監督のように、自分に関わる人たちの幸せと、自分がやりたいことの両立を図れるような人生は、素晴らしいものだと思います。

そんなこともあって、大切なものを見失ってはいけないな、と思う今日この頃なのでした。

noteのこんなふんわりした事も書いても許される雰囲気が、大スキです笑

ではでは。


<このnoteを書いたしょこらはこんな人です>



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