締め切りは頑張りの加速装置
終わりが見えていないと、走られない派です。
現在事業の中長期プランを作っているのですけれども、この議論が当たり前ですが、終わりがないんですよね。
哲学的な話から実務的な話まで。色々な議論ができてしまうので、やろうと思えば延々と議論できるわけです。
ではそんな議論がどうしたら終わるのかと言うと、結局、締め切りが来た時が終わりとしか言いようがないのかなと思います。
締め切りがあることは議論の切り上げとなってしまい、良くないコトのように思われてしまうこともあります。実際、最近頂いた苦言は、終わらせに掛かっている姿勢が気に入らないとのインプットでした。
一方で、締め切りや、終わりがあるからこそ頑張れるというのはあります。
人はそう何日も何日も、限界を超えて頑張り続けることというのは出来ないものです。ただ、締め切りという明確な目標があると、そこに向けて短期的に自分の限界を超えて頑張ることができたりもします。
なので、終わりがあるということは、期間限定で自分の限界を超えていける加速装置のようなものではないかなと思っています。
結構、会社においてあるあるのですが、始まりの時間にはものすごく厳しいですけれども、終わりの時間には緩かったりするんですよね。
例えば、始業時間にはみんなものすごい正確に来ようとしますが、就業時間は大体まちまちではないでしょうか。
また、会議も時間通りに始めることにはもの凄いこだわりを見せるのですが、時間通りに終わることには今一つコンセンサスがとられてなかったりもします。
この始まりには厳しく、終わりに緩いという文化は、どうしてこうなってしまったのかなと考えると、やっぱり共同体としての意識なのかなと思います。
個人よりも組織としての規律が重んじられる社会ですので、そこには共同体としての和を乱さないということが重視されるものです。
和を乱す人というのが取り除かれるように出来上がった合意が、がんばっている感が全面に出る、始まりに厳しく終わりに緩い文化なのではないかなあ、なんて思ってしまったりします。
とはいえ、先ほどあったように、締め切りは頑張りの加速装置なので、終わりがあった方がプランニングとしては非常にやりやすいわけです。
何事も、ゴールを定めてから逆算する形でスケジュールを組むというのは、進める上での鉄則です。
そのスケジューリングによって、それぞれのタイミングでやるべきことがわかり、自然とやるべきことが細切れになっていきます。
こうして、遠いゴールが近くのチェックポイントに細切れとなって現実的になってくるんですよね。
この、スケジューリングの観点からの締め切り設定というのは、頑張りの加速装置と言う機能と相まって、ものすごいパワーを持つものです。
ということで、基本的には終わりから逆算して、それに向けてスケジュールを細切りにして、やらないといけないことをタスクにして取りまとめるという進め方をしています。
やっぱり、締め切りは無いと無理ですね。品質面でも、先に進むという意味でも、そして、継続性という意味でも。
このnoteをとりあえず毎日書くというのも、毎日という締め切りがあるので、そこに向けて残り何分で何を書けるかということを考えられるのです。
そのようなことを考えない方が、広がりがある話になるとは思うのですが、まとめるのは難しくなってしまうのではないかなと思います。
なーんて考えながら、締め切りが迫ってきているのでオチを考えているのですが、やっぱり今最後の見所である桜かなと思います。
桜がここまで人の心を捕まえてやまないのも、やはりその散り際が美しいからではないでしょうか。
期間限定の美しさ。どのお花もそうなのですが、「散る」という終わりの強調が、より一層その美しさと儚さを強調してならない気がします。
多分年中咲いていたらここまで人気出ないと思いますよ。桜。
ということで、終わりを決めて、その期間限定で頑張るというのは、何においても大切なのではないかなと思う今日なのでした。
皆さまも、頑張りも良いですが、期間限定で無理なさらずに。
ではでは。
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スケジューリングというと、ついライフハック的な方に意識が向いてしまいがちなのですが、一番大切なことは「どのタイミングまでに、何を終わらせるべきなのか」という思考だったりします。そんな意味からも、大切なことを見分ける技術こそが、スケジューリングのキモではないでしょうか。
<このnoteを書いたしょこらはこんな人です>
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