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幸せを集めるより苦痛を避けた方が幸福になれる

人間はとにかく幸せになりたがる。
「人が生まれたのは幸せになるためだ」とかいう台詞も存在するくらい。

ショーペンハウアーによれば、この幸福を積極的に求めることに意味はない。
ここでの幸福とは、華々しい成功とか、富とか名声とか、とても楽しいという感覚とか、世間一般に幸せとされているものだと考えれば良い。
ショーペンハウアーはこの幸福を「享楽」と言い表してもいた。
以下、ここでもそうした成功を享楽と呼ぶ。

しかし、享楽というのはわかりやすく言えば「無くなって初めて存在が分かるもの」である。
本文だと、「消極的で否定的」と表現されている。
要するに減点方式だ。

始めが100として、何か欠ける要素があればそればかり気にかかるような減点になる。そして100が当たり前だと考えられているものなので、そこにいくら減点がない状態でも、私たちは特別それを評価することはない。

これと対照的なのが、苦痛だ。
苦痛は、1つでもあるだけで「そこにある」とわかる。
本文中では「積極的で肯定的」と表現されている。
要するに、加点方式だ。

苦痛というものは、何かが欠けていることを指すのだから、肯定的などと言われてもしっくり来ないかもしれないが、これは認識の態度に関して述べているのである。

苦痛は存在しないことが理想とされており、始めが0点なので、1つでもあればそれはプラスということになる。これを、ショーペンハウアーは「積極的で肯定的」と表現したのである。

なので、彼曰く、苦痛を代価に享楽を求めることは愚かなことだという。
上の理屈に照らせば、苦痛をプラスして、享楽のマイナスを減らそうという試みなわけだ。
しかし享楽は1点でもマイナスがあればアウトなのだから、少しでも加点をしようなどと言う試みは無駄である。

しかも、そうして交換した享楽というのは、短い時間しか持続しない。
例えば、何かのフェスに行ったとする。楽器の演奏だとか、笑顔で熱狂する人々がいて、紙吹雪が舞ったりもする。
しかしいくら楽しそうな演出がされていても、それは楽しいという文化的な記号を塊で表現しているだけなので、真の幸福にはならない。

本当の幸福というのは、何にもめでたくない日に、砂のように細かな姿で感じ取れる程度のもので、フェスのようにわかりやすい姿などしていない。

真の幸福とは、熱狂するような、テンションが上がるようなものじゃない。
日々の日常に、耐え難いような苦痛がない状態を指すのだ。

だから、自分が今幸福かどうか知りたいときは、世間の印象や自分の所有しているものを数えるのではなくて、
日々の悩みについて考えれば良い。

その悩みがなんとか耐えられる程度のものであれば、それが幸福な日々だと考えて享受すれば良い。


ショーペンハウアーの『幸福について』を読んで、印象的だった部分を、自分なりの説明を足してまとめてみた。

私はかつて死にたいと考えるほど苦痛があったけれど、今はない。
悩みになるものも、ちょっとした人間関係くらいだ。あとはテンションの乱高下でちょっと鬱になるくらい。
この理屈で言えば、今幸福なんだろう。耐えられる程度だしな。

これを読んだ人はどうだったかな。

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