言葉の表情(前編)

「生きた言葉」「魂ある言葉」とはどのようなものでしょう。反対に、「言葉が表情を失ってしまった」状況を感じたことはあるでしょうか。

『言葉の魂の哲学』古田徹也(著)は、「言葉に魂が入ったように表情を宿し始めること、言葉の独特の響きや色合い、雰囲気といったものを感じること、あるいは、それらのものが急に失われ、魂が抜けて死んだように感じることについて。そして、こういった体験は、私たちの生活にとって、どのような影響や重要性があるのか」について書かれた哲学書です。ゲシュタルト崩壊を扱った中島敦とホーフマンスタールの二編の小説に触れてから、ウィトゲンシュタイン、それからカール・クラウスの言語論を検証した一冊です。

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しっくりくる・ぴったりと合う言葉やフレーズを選び取るというのは、それ自体が人のとるべき一個の責任であるといいます。あることを表現する、または人に伝える時に、いまいちピンと来ないまま言葉を発したり、妥協してそのままお茶を濁したり、時にそういう場面もあるかと思いますが、カール・クラウスはその場合の「言葉を選び取る責任」を「最も重要な責任でありながら、現に行われていることとしては最も安易な責任と化している」と述べています。

〈言葉の実習〉にそもそも関心を持たない、または選び取った言葉の違和感に気付いてすらいない人もいるでしょう。「この人と話していると合う」とか「波⻑が合う」というのは何を判断しているのだろう、とかねがね不思議に思っていたのですが、それは、〈言葉の実習〉に対する関心度合いの一致加減によるものかもしれません。それは、お互いにある状況において、言葉の選択が似ている、だけではなく(もちろん含まれると思いますが。その場合は今まで生きてきた環境が似ていたりするのでしょうか)、「しっくり来る言葉を選び取る」までのプロセスを理解し合えるからではないでしょうか。

本書に出てきて面白かったのは、「やばい」という言葉の使い方についてです。何の考えもなく発する「やばい」と、この言葉を用いる者自身が「やばい」のニュアンスに自覚的になれるかどうかは、全く違うということです。「すごく美味しい」でもなく「絶妙な風味だ」では表せない「やばい」の持つ独特の表情を認識できているかどうか、が線引きなのだとか。

本書では、人々が自分の言葉や意見として語っている言葉の多くが、実は他人が繰り返している常套句の、さらなる反復にすぎない場合の危険性にも触れています。それが最も悲劇的なこととして現れたのがナチス国家のプロパガンダです。近年マス・メディアで拡散される紋切り型の言葉やフレーズなども、もちろん当てはまるでしょう。カール・クラウスは、〈言葉の実習〉を続けることによって戦争が遠ざかると、本気で信じていました。

(後編)へ続く

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