課題へ向き合う時の言語化/概念化について

ある概念や言葉そのものを知る事が、自分の思考の限界値そのものを拡げる、という捉え方があります。言葉にしてしまう事で何か別のものとなってしまい、どうしても言葉には表したくない、という考え方もあります。それは特に、表現の世界で多く見られる現象ではないかと思います。ここでは、個人の(または団体の)表現における言及は置いておき、企業内の課題に向き合う時を考えてみたいと思います。ある現象において、現象そのものが言語化/概念化されていることで、一つ以上、上の視点から概況を見ることが出来る場合があります。

極端な例ですが、会社の中に不快な出来事が起きたとして、それを社員全員で共有する言語が「腹立たしい」しかなかったとします。その不快な出来事に対する、「腹立たしい」から生まれる対策や感情は、果たして建設的な状況を生み出すでしょうか。選書視点から見ると、企業内で生じたあらゆる現象への“名付け”の選択肢は、多ければ多い程良いのではないか、という目線に今のところ立たせてください。

幸福とは、選択肢の数が多いこと。という言葉を聞いたことがありますが、似たようなことで、一人ひとりの行動や感情から生まれている企業内の課題に対しては、永遠に問いを立て続けることで新たな言語を生み、また新たな対策への選択肢につながっていくのではと考えます。ここで注意したいのは、既存の言語化/概念化されたものへ当てはめ、そうと信じて疑わないことです。そこからは、偏見しか生み出されません。結局のところ、想像しても想像しても辿り着けないところに人間の思考や行動の引き金はあるのですから、すぐさまカテゴライズしすぎてしまうことの警告と、選択肢の先を常にアップデートしていくことの啓蒙を、選書本棚が貢献できると考えています。特に、想像してもし切れないことについて知るために、物語があるのです。

0か100かでもなければ、もしかしたら100しかないかもしれないということを頭の中でバランスを取れるようにする。本を一時的にでも多く、より多くのジャンルの文章を同時に読むことで、これらの頭の中のバランス感覚は養われていきます。

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