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厚さ5ミリの文庫本

私は、本屋の文庫本コーナーが好きだ。ギュギュっとたくさんの作品が凝縮されているところと、映画化ドラマ化アニメ化される作品が平積みされているところ、図書館みたいにあいうえお順で並んでいるところ。新聞を読むように、端から端まで本のタイトルに目を通していくのも好きだし、ある特定の作家の作品ばかりを、出版社ごとに拾って見ていくのも好きだ。文庫本コーナー巡りは、私にとってぜいたくな時間の使い方の一つだ。

この本は、お気に入りの本屋の文庫本コーナーを流していた時に、目に留まって買ったものだった。両隣の本から押されて、背表紙が見えなくなりそうなほど薄いのだ。

小さきものはかわいい。私は、野菜売り場の芽キャベツとか、小さき野菜の可愛さに負けて、当てもないのに買ってしまうことがある。この本も、これ以上薄い文庫本ないんじゃないの?ってくらい薄くて、かわいいのだ。うっかりスルーしてしまいそうな出で立ちも、はかなくてよい。本当に厚さ8ミリ、いや体感5ミリくらいだから、一度実物を見てみてほしい。

薄いのには少し理由があって、小川洋子さんと河合隼雄さんの対談をまとめたもので、途中で河合隼雄さんがお亡くなりになられたため、対談部分(120ページ弱)と、小川洋子さんによる「少し長すぎるあとがき」(30ページほど)とで、一冊の本の体を成している。

この成り立ち方、もうカネ恋だ。そんなつもりで読み始めた本ではなかったのに、なんでもそちらに結び付けてしまう、まだまだ三浦春馬脳なのか、どうしてもそこに行きついてしまう。

前後するが、あとがきで小川氏は自分のような者がこうした文章を綴っていてよいものかと、迷いや不安を感じながら、以下のように書いている。

本来ならばこのページは、先生から発せられるもっともっとたくさんの言葉たちで埋められるはずでした。それが叶わなくなり、私は白紙のページに取り残され、一人立ち尽くしているような気持です。

物語を道半ばでとじなければならなかった、カネ恋の脚本家の大島さんもこのような心境だったのかと重ねてしまう。

最期となった対談では、河合氏の「今度はあの作品の話からしましょう。」との言葉があり、ここにも果たせなかった未来があったのだなぁ、と、また春馬が語っていた未来を思ってしまう。


「なぜ小説を書くのか?」に対する小川氏の考えが下記の通りで。

人は生きていくうえで厳しい現実をどうやって受け入れていくか問うことに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。

そう言えば、新聞のインタビューで、村上春樹氏が「多くの作家が今回のコロナを題材に書き始めていると思う」というようなことを話していたが、そういうことなのか、と不意に思い出した。

受け入れがたい大きな出来事を前に、作家は物語を書かずにはいられない。歌う人は歌うし、歌を作る人は歌を作る、音楽を奏でる人は奏でる、絵を描く人は描く、演じる人は演じる…みんなそうやって、受け入れがたいことの形を変えて生きていくのだな。ワンオクもゆずもjujuもなのかな、共有させてくれてありがとう。

そもそも一般人の私が、なぜnoteを書いているのか、何に突き動かされているのか、不思議だった。「春馬のことがいくらショックだったとしても書かんだろう~」と冷やかな眼差しを向ける自分もいて。ショックと、noteに書くという行為の間にあるものの説明がつかなかった。

私だって現実が厳しくて、受け入れがたかったのよね、本当に。今も引き続き受け入れがたいのよね。

「その人なりに」でいいんだったら、私もnoteで文章にして記憶にしていくという作業が必要なのだとすると、ただ必要なことをしているだけなのか、と腑に落ちた。気にすることはない、辛くて受け入れられないことは書けばいいんだ、と大いに背中押され、太鼓判押された気になった。

河合氏が厳密さと曖昧さの共存を語るくだりでは、

河合:人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というものはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾と生きている存在として、自分はこういう風に矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思ってます。

中略

河合:「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。
小川:矛盾との折り合いのつけ方にこそ、その人の個性が発揮される。

ありがとうございます、noteで矛盾の堂々巡りを繰り広げているように思っていて、そのことも気になっていたんだけれど、お墨付きいただいた気分。それこそが私の個性であり、私の物語であるならば、仕方ない。

そして、やっぱりどうしても思ってしまう、春馬どうしてだよーあんなに未来を語ってたじゃないかーと思ってしまうけれど、その矛盾すらもはや春馬の物語なのかもしれない、とはまだ思えないけれど、いつか思える日が来るかもしれない。


以前読んだ時にはそこまで深くとらえていなかったし、その時の私にはとらえられなかった。申し訳ないくらいだ。

この薄い本は、ただの本ではなかった。道半ばでの河合氏の逝去という大きな喪失があり、遺された小川氏が迷いながら戸惑いながら綴った、異例の長さのあとがきで、ようやく一冊の本としての体を整え、世に出た奇跡の本だった。今の私だからキャッチできた偶然恐るべし。私の手に、このタイミングで取らせたこともまた、本のマジックなのだなぁ。

河合氏の言葉をお借りすると科学では説明のつかない「うまいことできてる」ってことなのだろうな。


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