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『波動』の交換

夫には、すぐ効くことを求めがちだ、という
一田憲子さんの文章を読んだとき、
ほんとにその通りだなぁと感じ入った。

話さなくても、互いが自分の人生を生活を
積み重ねているのを、見て感じて、
毎日毎日、その微細な波動を交換しあっている。
それが共に暮らすということ、
家族であるということなんだと。

会話、というのをどう定義するか。
わたしとしては、内面というか、
考えてることを伝え合うのがそれ、だと思う。
そう定義した会話というものは、
わたしたち夫婦にはほぼないような気がする。
慣れてしまったが、少し寂しい。

でもこの文章を読んで、
その人となりをずっと見合っていくこと、
波動を受け合っていくことも、
別の意味での会話ととってもいいのではと
気持ちが楽になった気がする。

夫はきっと、テレビのニュースに
あーだこーだと一方的に感想を述べたあと、
わたしに同意を求めることも、
立派な会話だと思っているふしがある。笑笑

たまに反論っぽいことを言うと、
むっとしてしりすぼみというか、会話は途切れる。
もっとディスカッションしたい。
別に言い負かしたいわけではなく、
わたしはこう思うよ、と伝えたいだけなのだから。

長年、(もうすぐ20年)一緒にいると、
いいかげん、相手がむっとするポイントがわかる。
とにかくけなされたり、からかわれたり、
否定されることがが苦手。
古い言い方をすると、男の沽券に関わることだ。
そーねーそーねーと常に同調し、
気持ちがいいようにしておけば、万事うまくいくのだ。
わかっている、わかっちゃあいるけれど。

けなしたり、ちゃかしたり、落としたり。
でもそこにはちゃんと愛というリスペクトがある。
だから、大丈夫!というのは
高度なコミュニケーションなのだろうか。
わたしはそういう家庭で育ったので、
根っから身についたスキルというか習慣なのだけれど。

だから家族になった夫にも、
そんなやりとりを求めてきたのだが、
いいかげん、
それが彼には合わないということも学んだ。
そういえば、お義父さんは、
まったく臆することなく
我が息子を褒め、自慢していた。
身内を少し落として、謙遜する、笑いをとる。
いかにもそういう日本人らしいところが
皆無だったのが、お義父さんという人である。
なるほど、そんな家庭で育った夫なのだ、
わたしの習慣と合わないはずである。

そのフラストレーションを解消してくれるのは、
(神は見捨てなかった!)息子である。
あまりいきすぎると本気にして怒るが、
なんとも絶妙な返しで、わたしの愛あるおちょくりにも
果敢に対応できる能力が備わっている。

そんな嫌味なこと言って、ママ、ほんと性格悪いよね。

そう冷静に返されることもあって、はっとなる。
それは、こちらに余裕がなく、
叱るではなく、一方的に怒っているとき。
愛もユーモアも、そこにありそうでないときなのだ。
家族の気やすさで、簡単に否定してはならない。
そう、戒められているような。

要するに、我が家は3人しかいないのだから、
単純な男どもを、いつもご機嫌にするべし、ということ。
キラキラはっぴーな波動を出せるように、
援護射撃、サポートしていくことが、
ついにはわたし自身の幸せにつながっていくのだ。
妻であり母であるわたしが、
デリケートでロマンチックな男どもを、
菩薩のココロ笑笑でもって、
手のひらの上で、ルンルンさせておく。
それが使命なのかな、と。

それには、わたしの心身の健康と満足がたいせつ。
だからしたいことをして、行きたいところに行き、
自分自身がhappyであることを最優先に、
このひそやかなミッションを実行していきたい。
ほしいものをこっそりポチっとしてるのも、その一環。へへへ。

最小単位の3人が、それぞれ明るい波動を交換できるように。
まずはわたしがご機嫌に。



#コラム #エッセイ #夫婦の会話 #波動の交換
#ご機嫌に生きる #一田憲子  

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