誰かの成長を見ると感動するのはなぜだろう

「今までできなかったことができるようになった」瞬間を見たときって、なぜあんなにも感動するのだろう。


私は今0歳児を育てており、彼女の日々の成長に感動を受けっぱなしだ。最近の娘は、伝い歩きができるようになった。今まではつかまり立ちはしても歩みを進めることはなかったが、1歩、2歩、と歩き出し、ついには「これ歩いてるじゃん!」と言えるレベルに到達した。

そういえば数カ月前、娘が初めて寝返りした瞬間を目の当たりにした私は、「……!!できたねぇぇぇぇ!!!!!」と大興奮で娘にかけよった。きっとお隣さんは何事かとびっくりしたに違いない。
それまでの娘は、頻回に海老反りをしていたももの、「もうちょっとで寝返れそうだけどあと1歩がなかなか難しい」状態が2ヶ月ほど続いていた。

それが、ある日突然私が洗面所から戻ってきたタイミングで「ころっ」と右回転をしたのだから、私はとても驚いた。娘本人も相当びっくりしたようで、今思い出しても娘のそのキョトンとした顔は最高に可愛かった。

そうやって娘が初めて寝返りしたとき、私は本当に涙を流した。もう、嬉しくてたまんなかった。

娘が初めて立ったときも、初めて伝い歩きができたときも。
(それを言うなら、初めて泣いたときも、おっぱいを吸ったときも、うんちしたときも……だけど。)

できなかったことが、できた瞬間。
育児はこういう感動をたくさん味わえるのかと、子どもの存在の大きさに圧倒される。


そういえば、私はドラマや映画、アニメなど何でも、「できなかった人ができるようになる」系のものに弱い。例えば、弱小チームが全国大会に行った話とか、トラウマを乗り越えて強くなったとか。いつも泣いて見てしまう。特に主人公が子どものものは。


そこで思う。

「できないことができるようになった」瞬間を見れたときって、なんであんなに感動するんだろう。

例えば私の娘なら、毎日毎日寝返ろうと海老反りの体勢を繰り返してたし、映画やアニメだと弱小チームが必死になって練習するシーンやトラウマを乗り越えるために辛い事実と向き合う場面が描写される。

そうやって「できる」ようになるまで、人は「できない」を繰り返す。

できないことを繰り返している人を見たら、応援したくなるのが人情だろう。多くの人は見守ることしかできないが、見守るということはその人のことが好きになっているのだ。

好きな人の気持ちには影響されるもので、好きな人が「できない」あいだ苦しんでいたら自分も苦しい。
それが、「できる」ようになって、好きな人がめちゃくちゃ喜んだら、自分もめちゃくちゃ嬉しくなる。

つまり、人の成長を見て感動するのは、自分がその人を好きだという証拠なんだ。

どうやら私は好きな人がいっぱいいるようである。



娘が将来何か好きなことができたら、私はそれを全力で応援したいと思う。
「それよりもこっちの方が楽しいよ」とか大人の目線で興味を誘導するのではなくて、娘が自分から進んで興味を持ったものに触れ続けられるようにしたい。
(あっ。でも、娘が虫好きになって家にいっぱい虫連れてきたらどうしよう…………)

「娘の好きなことを応援する」っていうのはもちろん娘のためだが、一方でそれは私のためにもなる。私が娘の「頑張る姿」を見ていたいから。
私のお腹の中に胎嚢ができたときから、娘の成長をずっと見ている私だから、今後何かできることが増えるたびに私は感動していくんだと思う。

だって私は娘が大好きだから。

もちろん、子育てとは自分の思い通りにはいかないもので、大きくなった娘は物事にあまり興味がわかないかもしれないし、私とすれ違ってしまうかもしれない。
でもそれはそれで、親である私にできることはただ娘を見守ることだと思う。


私自身、幼少期から今まで「無我夢中で頑張りました!」と言えることは多くはない。しかし、何かを始めるのに遅いということはなくて、30代になっても40代、50代、60代・・・何才になっても、何かに頑張れる人でありたい。自分にできないことをできるようにする努力をし続けたい、と思う。

娘の「初めて〇〇ができた」を思い出しながら、今後の人生を送っていこう。




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