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夏に失う布と言葉

さあ、出かけようね。

今にでも落ちそうなぷくぷくほっぺを携える娘に、私は声をかける。
午後のお昼寝から目覚めた娘は、私を見るなり、夫似の切れ目をアーチ状に細めてキャッキャと声をあげる。ああ、可愛い。手もバンザイしている。うわあ早く抱っこしたい。寝起きの娘は1日の中で最もご機嫌なんだ。

今日は、娘のかかりつけの病院に行かねばならない。連日30℃を超えるこの熱さの中でわざわざ受診するほど緊急性の高いものではないが、定期的に処方を受けている薬が来週あたりになくなりそうであり、かかりつけは8月8日土曜日から18日火曜日までお盆休みだということから、木曜日である今日、受診を計画した。ちなみに、このかかりつけ、スタッフ全員が優しく患者からの評判はとても良いのだが、午後しかやっていないので、真夏には相当な覚悟を決めて家を出ねばならないのが唯一の欠点だ。

いつもより夕食が遅くなることを見越して娘におやつを食べさせ、出かける準備をし、娘を私の胸元に寄せる。娘はこの布とそれを固定するプラスチックのバックルにのみ身をゆだねているのだと思うと、親としてのスイッチが入る。家の中でも親だけど、外はそれ以上に気を張らねばならない。

行くよ、の声に娘は上目遣いで私を見る。0歳児の上目遣いは罪。本当に可愛い。自分が一番可愛く見える角度を日々研究しているインスタ民でもかなわない。そんな娘を見ながら玄関を開けると、ミーンミンミンミン、ミーンミンミンミン、と、一瞬で外の熱が私の肌にまとわりついた。

日傘をさしてアパートの玄関を出ると、右に曲がってまっすぐ進む。いきなり十字路があるから気をつけて。大丈夫、車も自転車も来ていない。ああ、どうしたの、外に出て嬉しいんだね。道路の左側にある家に布団が3枚干してある。まだまっすぐ進む。その先には大きな公園があるから、ランニングしている人の姿がちらほら目に入る。こんなに暑いのに、彼らの息遣いや体温を想像しただけで汗が噴き出るな。突き当りまで出たら、左に曲がる。ここは木陰だからか、娘の顔がよく見える。ああまた上目遣いで私を見てるう。木陰を抜けると、再び十字路がくる。手押し車を押したおばあさん、グレーの長袖とパープルの長ズボンで暑そうだけど、そういえば半袖半ズボンのお年寄りってみたことがない。あっ、白ベースにミント色の2本線が入ったどこかのスポーツメーカーのスニーカーに見える足元が敢えてはずしたファッションのようで可愛い。

そこから直線が続く。右には公園があって、いろんな人がいる。白いキャミソールに白いホットパンツ、白いハットが小麦色の肌によく映えている、子どもとかけっこしているヤンママ。パンパンに膨らんだスポーツバックを背中に回して自転車を漕ぐ中学生。帽子を目深にかぶりアームカバーとサングラスを身に着けた肌が全く見えないマダム。噴水でずぶぬれになる子ども。みんな、思い思いの時間を過ごしているんだなぁ。

さあ、かかりつけのクリニックは、もうすぐ。そこの角を左に曲がり、最近壁を塗り直していた斎藤さんちの前を通ると、お花屋さんが見える。ここを通るといつも良い匂いがするんだ。私の気持ちがわかるかのように、娘が「あむ~」と声を出す。ふふ、あなたもお花のにおい、わかるの。きれいだよね。この香りはなんだろうね。私、お花のこと全然わからないけどさ。お花屋さんのある角を右に曲がれば、目的地は目と鼻の先だ。あ、今すれ違った親子、どこかで見た気がするけど、気のせいかな。スリットの入ったモスグリーンの麻のワンピース、彼女にとても似合っていた。どこで買ったんだろう。ん?暑いよね。鼻の頭に汗かいてる。中に入ったら、お茶のもっか。もう少し、もう少しだよ。

さあ、着いたよ。家から15分もかからないのに、この暑さが私の体力を激しく消耗させる。スマホも熱を発しているときはバッテリーの減りが速かったっけ。


あっ。

あっ・・・・・・


ああああぁぁぁ・・・・・







マスク忘れた。





クリニックを受診するのに、マスクが、ない。

あれ、私、家出るときに、ポケットにマスクを入れた気がする。

あれ、あれれ・・・・

娘を抱っこしてから今まで見た景色を全部巻き戻してみたけれど、私がマスクに触れた場面はどこにもなかった。


夫の収入のみで生活している我が家は、ありがたいことにこの状況下でも夫の仕事はさほど影響を受けず、私も娘が0歳児だからという理由で年明けからずっと家にこもりっぱなしだったためその生活スタイルが逆に馴染み、外出欲もあまりわかなかった。だから、いま、外出する人々に新しい持ち物が必要であることを、うっかり、忘れていた。なぜ今日なんだろう。今日に限って、なぜ。たまにスーパーに買い物に行っても、忘れたこと、なかったのに。


どうするか。

マスクなしじゃ入れない。

隣のコンビニで買うか。でも、そのコンビニ自体にマスクの着用をお願いされている。


娘。


帰ろう。




家に着いた瞬間、私は一気に自分の体温が上昇するのを感じた。全身から汗が流れ出る。不要になった、娘の起床後からあのクリニックにたどり着くまでの私の努力は、まるでデトックスする前の私の体の中にたまっていた汗にそっくりだ。

こんなに暑いのに、往復30分かけて、私は娘を布1枚の中に入れて、重いリュックを背負って、アパートの階段を3階分上り下りして、日傘をさして、散歩しただけだった。


娘に謝ろう。こんな炎天下に無意味に外に連れ出しちゃって。涼しい家の中で遊んでいたほうが、楽しかったかもね。


娘にそう声をかけようと、目線を下にさげると、私はうっと言葉に詰まった。


娘は、あの切れ目をアーチ状に細くした顔で、ニコニコしながら、私を見ていた。


「お散歩、楽しかったよ」


私にはそう聞こえた。


ああ、この子がいれば、私の行動に無意味なことなんてないのかも。

私も、お散歩楽しかったよ。

クリニックは明日、いこうね。



ところで、私の布マスク、どこいったんだ。帰宅時からずっと探しているのに、今も見当たらない。





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