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活字中毒者の営み

散歩が好き。
ゆっくり歩きながら
まわりをきょろきょろするのが好き。

ルーティンの散歩コースはないけれど
私はなんにもない静かな住宅街や
広い公園を歩くよりは

少しにぎやかな街の大通り沿いや
商店街があるあたりを散歩したくなる。

散歩をすると
新しい発見がたくさんある。
例えばふと通りかかった道沿いに出ている
白地に店名が書かれているだけの看板。

その看板の先は階段になっていて
なんのお店なのかはわからない。

「気になるなぁ」
「アクセサリーのお店?ケーキ屋さん?」

それだけでそのお店のことが忘れられなくなる。

家についてインターネットで少し調べたら
夫婦で営むおしゃれなヘアサロンだった。

そんなふうに
ひっそりとたしかに佇むその街のなにかを
私は探すのが好きで
だから街を歩きたくなる。

インスタグラムで見たあのお店を見つけて
「あっ。ここにあるんだ。わりと近いな」 
そんな発見をしたこともあるし

お腹が空いたときには
気になっていたお店に
「えいっ。」
と飛び込んだりすることもある。

秋に飛び込んだイタリアンのお店の
ランチの日替わりパスタとティラミスが絶品で
私の近所のお気に入りリストが
更新されたこともある。

そんなふうに街を歩くのが好きな私だけれど
街を歩きたくなる理由がもう1つある。
それは
街中の文字を見つけて読むのが好きだから。


「活字中毒」

その言葉を初めて知ったのは
大好きな内田樹さんの著書だった。
(どの本の冒頭だったか思い出せなくて紹介できず、ネットで調べてみたら以下のブログがヒットしたので代わりに載せておきます。)

私は重度の「活字中毒」であるが、これは必ずしも「面白い本が読みたい」ということを意味していない。字が書いてあれば何でもいいのである。
現に、電車の中で本を読み終えてしまうと、私は巻末のカタログを熟読し、奥付を読み、中吊り広告を読み、窓に貼ってある広告(「わきがのことはオレにまかせろ!」などというのを)を熟視する。

内田樹の研究室 朝の読書 より
http://blog.tatsuru.com/2008/10/08_1220.html


何時でも文字を読まずにはいられない
なんだか読んでいないとウズウズする

というようなことが
本には書かれていた覚えがある。

その本を読んで
内田さんのおっしゃるその気持ちが
なんとなくわかって
私は自分の活字中毒ぶりをやっと認知した。

それまでは
自分がそんなにも文字を、文を
渇望しているということを知らなかった。

でも
誰かとどこかを訪ねて歩きまわっているとき
「あのお店なんだろうね」
「ねえみて。あの看板おもしろいよ」
そんな話を私がよくするのか
私はしばしば
私の好奇心の強さを指摘されることがあった。

世の中の人は私と同じように
自然と街にある文字は読んでしまうものだと思っていた。
案外、そうでもないらしい。

電車の中でも
中吊り広告に興味があるかないかは関係なく
そこに読み物があるから
という理由から読んでしまう。

幸い、内田樹さんほど重度の活字中毒ではないという気持ちではいるものの
活字中毒者である私はやはり日常で
活字を渇望しているのではないかと思うことがある。

それは、twitterを開いて更新して 
また閉じてもすぐにtwitterを見てしまうとき。
YouTubeで字幕があれば
字幕ばかりを追ってしまっていると気付いたとき。

気付いてもやめられない。
だからやっぱり「中毒」なのかな
なんて思う。

でも私は
自分のこの中毒ぶりは嫌いじゃない。

読むことは私にとって大切な
私がこの世に意味をもって生きるための私の営みなのだなと思うから。

今日も活字中毒な私は
電車の中吊り広告を読み
読み終わったら窓の外を眺め
猛スピードで流れる街の風景から
活字を攫って
電車を降りて帰路につくとき
活字に目を留める。

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