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小説「つまるところは」(推敲版)

以前書いた小説を、書き直しました。

「ねえ」
 今日あったこと。仕事がうまくいかなかった。それで少し気分が落ち込んでいて、誰かに慰めてほしい気分になっている。
「んー?」
 そう言って返事はするけれど、私と目が合うわけではない。彼の視線は、プロ野球のテレビ中継に向かっている。
「今日さ、仕事がうまくいかなくて、自分の効率の悪さに落ち込みそうになってさ」
私の言葉が宙に浮く。それは目の前の人に届けた言葉。だけれど目の前には、人の形をした壁があるだけのようだ。
 相槌が欲しい、そう思うのは私の欲張りなのだろうか。自分の弱さをさらけ出すのは良くないことなのだろうか。でも私は、誰にでもこんな姿を見せるわけではない。今の職場はもう務めて八年目になり、後輩もたくさんいる、そんな立場で「仕事がうまくいかない」なんてわめいている人はいないはずだ。
 私は、あなただから、こんなにも弱くなる。
 面と向かってこんなこと、本人には言えないけれど、私は常々そう思っていて。だからこそ、この食卓を「あなたとの対話の時間」として大切にしてきたのだけれど。
「…えっ。ごめん、なんだっけ」
その言葉と同時に、私はあなたとやっと視線が合う。だけれどそれもつかの間、テレビからなる硬いものがぶつかる音、そしてそれに喜ぶ観客の歓声が、また彼の視線を私から奪ってしまう。
 私は彼に聞こえるか聞こえないか、いやぎりぎり聞こえていてほしいと願いながら、ため息をつく。この食卓はいつからか、私のため息が占拠するようになってしまった。彼はそれに気づいているのかわからない。
 人間には、不都合に都合よく気づかないでいる術が備わっているものだから。
 それにしてもいつからだろうか。私がこんな風に彼との食卓に不満をもちはじめたのは。彼との結婚生活も、来月で一年半が経つ。少なくとも一年半前はこうではなかった。この部屋に引っ越してきて、私は左手の薬指にまだ少しの違和感を覚えながらも、新品のダイニングテーブルに座ってこれからの生活のことを楽しみに思っていた。
 今も座っている、このダイニングテーブルで。
 私は他愛のないことでも、彼の話を聞きたいと思う。そう思うのは決して私が聞き上手だからではない。そうではなくてただ私は、あなたが普段何を考えているのかが知りたい。私の話のどこに共感してくれるのかが知りたい。なにに興味があって、仕事はいまうまくいっているのか。それを私に話さずにはいられない、そんな姿が見たい。――いや、そんなかわいいものではないのかもしれない。
私はこの食卓で、この空気ごと、時間ごと、彼に愛されていると実感したいだけなのだろう。
私の言葉が壁にぶつかったまま返ってこず、そしてそれを取りこぼした彼からの言葉も宙に浮いたままの食卓は、文字通り味気ない。
 野球観戦の音と、みそ汁を啜る音、そして自分の咀嚼音をかみ砕きながらなんとか平静を装っている私は、この食卓に歓迎されていないことを悟りながら、それでも「いつか」と、歓迎を待ちわびている。
「ごちそうさまー」
 彼はいつの間にか、夕食を平らげていた。ついぞ私との会話もなしに。
 私はぼんやりとゆっくりと食べるしかなく、まだ茶碗にも半分のご飯が残っていた。
「おいしかった?」
 私はこりもせず、彼に話しかける。そうしないではいられないから。
「おいしかったよ。ありがとう。じゃあ今からあっちの部屋で野球見るから。通話しながら一緒に観戦するのに誘われててさ」
 なるほど、矢継ぎ早という言葉が似合う。そんな訳の分からないことを考える私のことなど気にも留めず、彼はそそくさと食器を一つに積み上げシンクに持って行った。
「はあい」
 私は間の抜けた返事をするしかなかった。
 
 ご飯を食べ終わって、誰も見ていないリビングのテレビを消した。そしたら向こうの部屋から、彼の楽しそうな話声が聞こえてきて、私はものすごく羨ましくなった。私は彼と、その空間をつくりあげることはできない。私は野球に詳しくないし、彼が好きなゲームのセンスもない。
 唇をきゅっと結んだ。ため息が漏れないように。
シンクには二人分の茶碗と汁椀がちゃんとあった。たしかに食卓は存在していたよと、私に語り掛けるように。 
彼が使った茶碗にこびりつく米粒。ああ今日も、水につけておいてくれなかった。
仕方なく、今更茶碗を水につけて、それ以外の洗い物を始める。
そろそろ排水口も掃除しないといけない。いつでもできるからとつい後回しにしてしまっているせいか、少し嫌なにおいがしている。
   
   
***

 あの日からキッチンの排水口のにおいが消えない。届く範囲をキレイに洗ってみても、排水管を掃除する薬剤を使っても、臭いは取れなかった。
シンク下の戸棚を開けると、そこもいつの間にか臭いがこもってしまっていて、私はザルやボウルを取るたびにまいってしまう。
この一か月の間に、どうしてこうなってしまったのか、原因は何も思い浮かばなかった。私はいつも通り過ごしていただけだったから。
 お風呂から上がって、寝る前にリビングで家計簿をつけていたとき、眠そうな彼が通りすがった。私は排水口のにおいがどうしても消えないこと、何をしてもダメなこと、途方に暮れるこの感情を伝えたくて
「最近、キッチンの排水口が臭うんだけど」
と話してみた。
「そう?俺は感じないけど」
彼の返事はこれだけだった。
たしかに、お風呂の排水口は大丈夫。トイレも大丈夫。だから彼は気に留めないのか。

キッチンが臭うともう、ご飯を作るたびに気になってしまって、私はまともにご飯を作るのさえしばしば億劫になった。
彼にとっては、キッチンの排水口が臭っていることなんて、気に留めることでもないのか。
そう考えが至ったとき、私にどっと虚しさが押し寄せてきた。
   
   
***

    
いまだにキッチンの排水口が臭う。
なんだか日に日に強くなっているように思う。
 彼は最近、仕事が繁忙期に入ったようで、連日夜遅くにしか帰らない。だから、一緒に食事をとる時間はほとんどなくなってしまった。二人の食卓を支えてくれていたダイニングテーブルは、昔の華やかさを失い、まるで古びた祭具のようで、私はもうずっと愛着がもてなくなっていた。
 たまに互いの休みが合って、家で一緒に食事をすることはあった。だけれどその時、私も彼も、何も話すことがなかった。彼はスマートフォンを熱心に見つめながら食事をしているから、私は話しかけようがなかったのだ。
 彼はいまだにキッチンの排水口が臭っていることには気づいていない。人間には、不都合に都合よく気づかないでいる術が備わっているとうけれど、彼のこの態度からするに、やはりただ本当に、気づいていないだけなのだ。
彼は食べた皿も洗わないし、ごみを集めることもしないし、ゴミ捨てにだって行かない。だから、日に日に増すこの嫌な臭いに気づくことができないらしい。

いつからこうなったのかは、最早どうでもよくなっていた。

私にはもう耐えられないほどなのだ。
   
   
***

    
キッチンの排水口がいつの間にか詰まった。水がなかなか流れきらない。
一週間前、いいかげん皿を洗おうとキッチンに入ったとき、ひどく臭っていることに初めて気がついた。今の今まで、俺は知らなかったのだ。
いや、まったく知らなかったわけではなかった。前に、
「キッチンの排水口が臭う」
と、彼女が訴えていたからだ。
もう、その時からだったのだ。

でも、俺はその時何も感じなかったから、何もしなかった。むしろ居心地がよいとさえ感じていた。
彼女は毎日俺に食事を作ってくれていて、食卓では俺にいつも、他愛のないことも、悩んでいることも全部話してくれていた。俺はそれで満足だった。そして彼女もそれで満足していると思っていた。俺が食卓にいて、彼女の話を聞きながら、彼女の作ったご飯を食べているというのは幸せな食卓ではなかったのか?
 遅かった、と俺は思った。
あのとき、彼女が悲痛を俺に訴えた時、きちんと彼女に向き合うべきだったのに。
自分には関係ない、キッチンは彼女のテリトリーだからと、俺は、二人の問題を都合よく彼女だけの問題にして、そのままにした。

彼女の帰りを待って随分経つ。
彼女はもう、帰ってこないかもしれない。

つまるところ、
排水口はもうずっと
これからもつまったままなのだ。


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