見出し画像

【短編小説】天国郵便

 玄関を開けると、部屋は闇で真っ黒に塗りつぶされていた。
 手探りで電気のスイッチをオンにすれば、見慣れた玄関先の光景が目に映る。大学に進学後、一人暮らしを始めて一ヶ月ほど住んでいる部屋だ。
結斗の手には、アパート入口のポストから取り出した封筒や広告が握られている。
 靴を脱ごうとして、足元に落ちている便箋に気付く。ドアに開いた投函口から放り込まれたようだ。
 まっ白な便箋。そこには宛名も差し出し人も書かれていない。
 鞄をいつもの場所へ置き、洗面台でうがいを済まして冷えたミネラルウォーターで喉を潤す。それから、汚れひとつない便箋の封を開ける。収められていた便箋と同じように白い手紙に、結斗は視線を落とした



 雲の中にいるような、まるで白銀の世界。
 ともに白い布を纏った二人が話をしている。無精ひげを生やした肌の黒い男に、秘書とも思える女性が怪訝な様子で訴える。
「本当に、こんなことをしてよいのでしょうか」
「オレがいいって言ったらいいんだよ」
 凛と立つ女性に比べて、男は大きな椅子に崩れて座り、能天気にも見える。秘書は眼鏡の端を押し上げて、なおも真剣な面持ちで話す。
「しかし、前例がありません」
「だからいいんだって。オレには知りたいことがあるんだから」
 男はひとつあくびをして、こう続ける。
「理由なんてそれでオーケー。それから、これは奇跡じゃない。サービスだ」
 そうしてもう一人、少し距離をとって小さく佇む若い女性に、にかりと笑いかけた。



 結斗には幼馴染がいた。
 向かいの家にいた女の子。親の話では、幼稚園に入るよりも前からよく遊んでいたらしい。小学校も中学も、高校も同じだった。そう考えると、長い付き合いになる。
 彼にとって、一番の女友だちだった。
 結斗には、幼馴染みがいた。二ヶ月ほど前までは、彼のすぐ近くに。

 日曜日の夜、近所で交通事故が起きた。信号無視の車が、夜道で彼女を撥ねた。病院に運ばれた彼女は、間もなく息を引き取った。
 結斗はその夜、久しく声を上げて泣いた。寝ずに涙を流して、学校を休み、泣き疲れて眠るまで泣き続けた。
 葬式が終わって彼女の死を受け入れても、なにか胸の中にしこりが残ったままだった。
 その彼女のことを、結斗は思い出した。思い出させられた。やけに白い紙に映える文面に、彼女の名前があったから。

『久しぶりって言えばいいのかな? 私、真優だよ。
 驚くよね? でもね、本当なの。信じてほしい』

 信じられない、そう結斗は思う。しかし、綴られているのは記憶にある彼女の文字によく似ていた。

『あんまりたくさん書けないから簡単に説明するね。
 信じられないかもしれないけど、最後まで読んで。
 私は、事故で命を落とした。でも、なぜかよくわからないけど、神様が私にチャンスをくれたの。
 結斗に、三通だけ手紙を届けてもいいって。仏の顔も三度までっていうやつなのかな?
 せっかく機会をもらえたから、言っておきたかったことを書かせてね。

 私といる間、いろいろ迷惑かけたよね。ごめんなさい。
 マンガ借りたままだよね、ごめん。
 勝手に君のジュースを貰ったりして、ごめん。
 子どもみたいに背後から驚かせたりして、ごめん。
 買いものだとかに引っ張り回して、ごめん。
 私がつらいとき、長話聞かせちゃって、ごめん。
 それから、君の誕生日を前にこんなことになってしまって、ごめんなさい。
 きっとまた、手紙を出すね。

 真優から結斗へ』

「神様やら、死後の世界を信じろって言うのか?」
 結斗の頭の中は、ひどく困惑していた。もし神に対する信仰心にあつかったとしても、到底信じられる内容ではなかっただろう。
 仏の顔が三度までの意味は合っているのか、そもそも手紙を書かせたのは神なのか仏なのか。そんなずれたことを考えながら、しかし文字ひとつに、文章一文に、彼女のことを確かに感じていた。彼女の「ごめん」が詰まった手紙は、結斗が思う真優をありありと写していた。
 胸の奥の方が締め付けられるようだった。
「信じる、これは真優の手紙だ」
 呟いたとき、便箋と手紙は徐々に微かな光の粒となり宙に浮かんで、そして消えていった。
 結斗の手に、彼女から手紙が届いたという証はなにも残っていなかった。



 秘書は机に寄りかかり、愚痴をこぼしていた。
「こんなことをして、一体なにが知りたいのかしら」
「う~ん、何を考えているかなかなかわかりませんからねぇ」
 後輩と思しき男は、書類に向かって作業をしながら適当に答える。
「四十九日に間に合うように対応しろって無茶言われるのよ?」
「あの方の秘書をするのは、大変そうですね」
「まったくよ。あなた、代わってくれない?」
 冗談混じりに真剣な顔を向けるが、後輩は書類から目を離さない。
「ははは、やめておきますよ」
 変わらず後輩は事務処理を続けていた。秘書は、深いため息とともに白くまばゆい天井を見上げた。



 真優の手紙が届いた日から、一週間後だった。
 アパートに戻ると同じように、玄関に白い便箋が落ちていた。結斗はそれを拾い上げると、靴を脱ぎ捨てて部屋に入った。
 机には折れ曲がったケースに入れられたままの、ペアのネックレスが置かれている。数日前に、引っ越しで仕舞ったものの中から取り出した品だ。
 結斗は丁寧に、素早く便箋を開く。そこには以前と同様、手紙が折って収められている。
 文面には、やはり幼馴染の名前があった。

『こんばんは、かな? 真優です。
 この手紙が二通目になるね。
 知ってた? 本当に前世とか、生まれ変わりってあるらしいの。
 亡くなった人は時間が経つとだんだん記憶がなくなっていって、そして生まれ変わるんだって。
 私も、大切じゃない記憶から消えていくみたい。友だちもね、もうほとんど覚えていないの。思い出せないことの中には、なにが思い出せないのかもわからないものもあって……。
 だからまた今のうちに、言いたかったことを書かせてね。

 私が生きていた間、いろいろとありがとう。
 朝、迎えに来てくれて、ありがとう。
 私のいたずらを笑って許してくれて、ありがとう。
 わがままに文句言いながらもついてきてくれて、ありがとう。
 いつも優しくしてくれて、ありがとう。
 泣いたとき、傍にいてくれて、ありがとう。
 私が事故に遭ったとき、苦しかった? 泣いてくれたかな?
 いやなこと思い出させちゃったね。でも、もしそうだったら、嬉しいな。ありがとう。

 私の中の記憶は失くなっていってる。
 だから、私の中の結斗への想いが残っていたら、最後の手紙に書こうと思うの。
 でも、三通目が届くこと、あんまり期待しすぎないでね?
 それじゃあね。

 真優から結斗へ』

 前世。生まれ変わり。転生。
 やはり書かれていることは信じ難いことだ。しかし、今回も結斗にとって彼女を感じさせる内容であった。彼女の跳ねるような「ありがと」の声が、太陽のような笑顔が、記憶のそこかしこから浮かんでくる。
 次で最後の手紙。自分についての記憶がなくなれば、それもない。
 彼女からの手紙をこうして受け取っている。しかし、やはり彼女はこの世にはもういない。自分を保つために、感情を必死に押し殺してきたのに、手紙のせいで溢れつつあった。
 最後の手紙を受け取ったら、また失ってしまいそうな気がする。再び、彼女と離れる恐怖を味わうのかもしれない。
それでも、結斗は待たずにはいられなかった。彼女の言葉を。
手紙は、また煙のように形を崩して空中へ消えていった。



 事故から数日して、葬式があった。そのあと、彼女の母親からあるものを渡された。遺留品の一つで、ケースは事故の衝撃により変形していたが、包装されたままの新品のネックレスだった。
「あの子が、結斗君に渡そうとして買ったものなの」
 結斗と彼女の、ペアのアクセサリー。それを受け取って、彼は抱きしめた。
 結斗の誕生日は間近。そしてネックレスは恐らく、誕生日プレゼント。
「僕のせいだ」
 自分へのプレゼントを買いに行かなければ、死なずに済んだのかもしれない。そう自分を責めることしかできなかった。
「僕のせいだっ」
 彼女からの贈り物を、強く強く、抱いて抱いて、しかし涙が出ることはなかった。


 椅子に自適に腰をかけて、無精ひげの男は秘書に問いかける。
「嬢ちゃんはどうしてる?」
「はい、最後の手紙を書き始めようとしています」
「ほお、そうか。持ってるほうだな。書き終わるまで、記憶が残ってりゃいいけどな」
 指に淡く光る輪を引っかけて、くるくると回しながらそれを眺める。
「確かに。これだけの期間、記憶を留めている者は少ないかもしれませんね」
「オレが望んでいるものを書きあげることができたんなら、奇跡を起こしてやりたいくらいだ」
 秘書は、少し言いにくそうに次の言葉を絞り出す。
「あの……神様。そろそろ何が知りたいのか教えては頂けませんか?」
 男はようやく秘書の顔を見て、輪っかを指で弾く。上に跳んだ輪は、男の頭上で宙に静止する。
「人間ってやつはほとんど自力で勝手に進化して知恵をつけたようなもんだろ? 命を管理してるのはオレらだが、そこまで進化して世界に影響を与えてるんだからよ。自分たちが喚いている『情』ってものの意味を、オレに教えてくれるんじゃないかと思ってよ」
「愛、というものですか?」
「愛情なのか友情なのか。嬢ちゃんがなにを見せてくれるかはわからんけどな。もしも、人間が知恵だけつけて情のない、そのくせ力だけを持った生き物だったら、要らないと思わねえか?」
 秘書は、自らの顔がひきつるのを感じた。
「要らない? それは一体、どういうことでしょうか……」
「そのまんまの意味だろ」
 男の表情は、変わらず安閑としていた。


 二通目から更に一週間後、結斗の部屋に手紙は届けられた。雨に降られて帰宅した夜だった。
「届いた。届いてくれた……」
 最後まで、彼女は結斗のことを忘れなかったのだ。
 三通目は彼のもとへ、確かに届いた。
 すぐに読みたいという気持ちと、読んでしまったら今度こそ別れになるという思いがせめぎ合う。その中、濡れた髪を拭くこともせず、ゆっくりと手紙を開いた。

『結斗。また、書くことができたよ。
 これが最後の手紙になるね。本当に最後のメッセージになるんだよね。
 今の私の中には、きっと大切な人たちへの大切な想いしか残っていないと思うの。
 そうして、私が君に伝えたかったことは、まだちゃんと私の中にある。

 ねえ。私たち、小さな頃から一緒だったよね。
 誕生日にプレゼントくれたね。ぬいぐるみとか本とかゲームとか。もっとアクセサリーみたいな色気づいたものも欲しかったんだけど、結斗に期待しても悪いよね。
 でもね、プレゼント、すごく嬉しかったんだ。
 間違ったことをしたとき、叱ってくれたよね。ちょっと弱々しかったけど、結斗らしいね。
 怒っていた私を、穏やかになだめてくれたよね。
 泣いていた私を見て、君も一緒に涙を流してくれたよね。
 そのどれもが、みんなみんな幸せだったって、今なら素直に言えるよ。
 居なくなってしまった私の言葉だけど、辛くしてしまうだけかもしれないけど。
 一生のお願い。最後に私の想いを聞いてほしい。
 本当は、結斗の生まれた日に伝えたかった気持ちを』

 押し黙ったまま手紙を読んでいる彼は、胸が締め付けられるようで、苦しくてしょうがなかった。

『結斗は、私のとても大切な人でした。
 ううん、今も、大切な人です。そして生まれ変わるまで、君のことを忘れない。

 なんで生まれ変わると記憶はなくなっちゃうのかな? こんなに失いたくないって願っているのにね。
 私の分まで、楽しさを感じて生きてね。辛さや悲しみ、怒りや幸せも、みんなみんな私の分まで。
 結斗だから、結斗だけに、お願いするね。
 
名残惜しいって、こういう時に言うんだね。
生まれ変わっても、結斗に出会える奇跡を望んでもいいかな。願うだけなら、神様も許してくれるかな。
 それじゃあね。今まで、ありがとう。それと、さようなら。

真優から大好きな結斗へ』

 手紙には、髪から垂れた雨なのか、目から溢れた涙なのか、いくつも染みができていた。彼は温かさと寂しさを胸に抱えて、素直に泣いた。
 幼馴染と事故で別れてから、心に残っていたつかえが何かをようやく理解した。近すぎた彼女へ、いつの間にか抱いていた気持ちを。自分でも気付けないでいた想いを。
手紙を握りしめ、彼女の名前をこぼれるように呼んだ。手紙は、聞き届けたかのように宙へ流れて消えていく。その空間に残った染みは雫へ還り、再び床へと落下を始める。
外では今も、空が一緒になって、大きな涙を流していた。


 そこは死後の世界。神の座する場所。
「彼女、三通目を書き終えました」
「そうか。書きあげたか」
「望んでいたことは、知ることができましたか?」
「……ああ。完全には理解できねぇけどな。なんとなく、わかったさ」
 秘書は「では」と一歩前に出る。神は、その真剣な眼差しを受け、椅子に崩して座り直す。それから中空を見て、何事もなかったような顔をして言う。
「もとから人間になんかしようなんざ、思っちゃないさ」
「そ、そうですか……。それでは、彼女の転生の準備を始めますね」
 ぶっきらぼうに「頼むわ」と手をひらひら振る。
「ああ、そうだ――」
秘書が踵を返して数歩、神は彼女を呼び止める。
部屋は変わらず、ただただ真っ白な空間だった。


 一人の若者が大学生活を始めて、最初の冬を迎えた頃。
 幼馴染を失って、悲しみを抱きながらも前を見て歩いてきた彼。彼女を忘れられなくても、人並みに人生の道を進めていると思う彼。どういう想いからか、ペアのネックレスをまるでお守りのように持ち歩くようになった彼。
 この日、講師への質問でいつもより帰りが遅くなった。昇降口から門への短くはない道の、薄ら積もった雪に靴跡を重ねていく。
 彼の少し前では、女性が一人歩いている。温かい飲み物を飲んでいるようで、時折息がなお白くなってなびく。と、後方からぱたぱたと走るような足音が近づいてきた。
 それは、結斗の横を過ぎて、前にいる女性の後ろで止まる。足音の主は「わあ」と声をあげて女性の肩をつかむ。相手は、ゆっくり首を後ろに回して苦笑いする。
「まったく、あんたの驚かし方は幼稚なのよ」
 追いかけてきた方の女性も、並んで歩き始める。
「え~、そうかなあ? 驚かすのはシンプルな方がいいと思うんだけど」
 二人で歩いている彼女たちは、徒歩のペースが落ちて、徐々に結斗との距離が縮まる。
「あ、おいしそうだね」
 そう言って、ホットドリンクのペットボトルを横取りして一口飲む。取られた側は溜息を吐きながらも、笑顔で相手を見る。
「はい、ありがと」
 跳ねるようなその声。飲み物を返す彼女の、その横顔に笑顔の花が咲いた。
「ああ――」
 結斗は知らず、鞄の中から取り出したネックレスを握っていた。


秘書は、半ば諦めの表情と口調だった。神の調子は、いつもと変わらない。
「こんなことをしてしまってよかったのでしょうか?」
「別にいいだろ、ちっとくらい奇跡を起こしてもよ」
「手紙もそうですけど、安売りしすぎでは?」
「あん? 言っただろ。手紙は、奇跡じゃなくてサービスだって」
 秘書の口からは次いで、言葉じゃなく溜息しか出ない。それから、以前手紙を書き終えた彼女の転生について、神に呼び止められた時のことを思い出す。
「オレが転生する時間と場所を指定する。それと、記憶も奥の方に残してやれ」
 時間? と秘書は不思議がる。生まれる場所はまだしも、時間まで指定してどうするのだろうと。いつ、転生させるのだろうと。
 詳細を聞いたとき、秘書はさすがに詰め寄った。
「そんなことをしてしまえば、同じ命が同じ時間上に存在することになりますよ!?」
「んなのわかってるさ」
「それに、前世の記憶を残しておくなんて……」
「記憶が残るケースは他にもあるだろ?」
 神は、彼女を過去に転生させると言ったのだった。生前の彼女が生まれたのと同時期に転生させる。そしてきっかけがあれば、転生する前の記憶を取り戻す可能性を持たせるようにと。
「そんなに大きな奇跡を与えてしまってもよいのでしょうか」
「オレからの講義料みたいなもんだ。大丈夫、オレがルールだからよ」
 秘書は自身の記憶にある限り、最も大げさに肩を落とした。今後もこの神とやっていけるのか、一抹どころでない不安を抱えることとなった。
「それによ。これは気付けなきゃあ、ヤツらにとっては奇跡でもなんでもないんだ」
 神は珍しく、微かに真剣さを灯した眼差しを見せた。


いつの間にか、口から漏れてしまっていた。呼びかけてしまっていた。
「真優」
 前にいた女性二人が、同時に振り返る。
「どちら様? 私たち、そんな名前じゃありません。人違いです」
 ペットボトルを返されたまま握っている、気の強そうな方が訝しげに結斗を見る。
それから「さ、行こう」と、面影を宿した彼女の手を引っ張る。二人は、前を見て歩き出すが、結斗は再び呼んでいた。
「真優!」
 彼はネックレスをかざす。振り返った彼女はそれを見ると、足を止めて引っ張られている手からすり抜けた。結斗は、静かに距離を埋めるように、ゆっくり近づいてゆく。そして不慣れな動作で、抵抗のない細い首にネックレスを飾った。
彼女は自分の首にかかったネックレスのトップを手にのせて、じっと眺めた。彼女の友人は事態を把握することができず、頭上に疑問符を浮かべている。
 ネックレスから視線を上げて、結斗の顔を、眉を、鼻を、唇を、そして両眼を見つめる。彼が映る瞳の端から、不意に涙が溢れ出した。それからようやく、彼女の口から言葉が引き出される。
「ああ……生まれ変わっても、また会えたんだね――」
 小さな口から、今の彼女の人生には登場しない、幼馴染の男の子の名前が紡がれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?