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他人のフィクションを想像する優しさ

そうであったかもしれないことに目を向ける

あるとき、ドラッグストアの店員さんに「なんでマスクがないんだ!」とクレームをつけている男性を見かけました。

それを「嫌なおじさんだな」と思うこともできる。でも、もしかしたら家に帰れば家族がいて、普段は優しい父親で、その家族を守るために買って帰りたいマスクがなくて焦っていたのかもしれない。

またあるとき、意図せずスーパーのレジの行列に割り込んでしまったことがある。それに気がついてきちんと順番を譲ったあともずっと、小言を言っているのが聞こえてきました。

それを「嫌なおばさんだな」と思うこともできる。でも、もしかしたらここに来るまでに他にもストレスを感じるようなことがあり、そのストレスを解消する術を持たないがために、小言というカタチでそれを発散せざるを得なかったのかもしれない。

そんなふうに「そうであったかもしれない」ことを思うだけで、その人たちに対するまなざしが変わります。


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フィクションで他人へのまなざしの選択肢をもつ

わたしたちはその人が複雑で多様な側面を持つ存在であることを忘れて、その一瞬の出来事で決めつけてしまうことがあります。

でも、そんなときにこそ「クレームおじさん」を「優しい父親」とみなすような「もしかしたら」で始まる他人のフィクションを想像してみたい。

その「他人のフィクション」は当たっているかもしれないし、外れているかもしれない。でも、当てることはさして重要ではありません。むしろ、フィクションによって「他人へのまなざしの選択肢」をもつことができること自体に意味があると思います。

「そうであったかもしれない」というまなざしの選択肢をもつことで、他人への短絡的な決めつけを回避できます。

そうすれば、わたしたちはもっと他人に寛容になれる。これは、人間の想像力の使い所のひとつだと思います。とくにいまのこうした厳しい状況下においてはなおさら。

ちなみに、自分が多様な存在であるという認識は「自己複雑性」と呼ばれることもあり、これが高いほどレジリエンス(回復力)があるそうです。これになぞらえるなら「他者複雑性」とでも言える認識を持つことも、わたしたちにはできるんじゃないか。それが高い社会ほどレジリエンスがある気もする。


Mr.Children「横断歩道を渡る人たち」

そんな想像力について歌っている(かのように感じられる)のがMr.Childrenの「横断歩道を渡る人たち」です。

この歌にはいくつも「他人のフィクション」が登場します。そのなかでも、「イライラした母親」と「もの分かりの悪い息子」についてボーカルの櫻井さんが歌うフィクションがとっても素敵なんです。

わたしの大好きな歌の1つ。ぜひ聴いてほしい。動画も貼っちゃおう。


ああ、ミスチルのライブ行きたいな。そのためにも、他人のフィクションを想像しまなざしの選択肢をもつことで寛容になり、他者複雑性を高めていまの状況を社会全体として乗り越えていけたらいいなと思っています。

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