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第7回 老婦人のさいごの風景

翌日、洋介が金子家を訪れると、いつものように執事が出迎えた。昨日も顔をあわせたというのに、執事は不思議そうに洋介をじろじろと眺めた。たぶん、スーツを着ているのが珍しかったんだろう。仕事を依頼されて挨拶にきた時ですらポロシャツにチノパンという軽装だったんだから。

 それはともかく、執事は洋介を温室へと案内した。

 老婦人は地植えにしてある棕櫚に触れていた。

「昔流行った時期があったから、今でも時々軒先なんかで見かけることがあるでしょう」

 老婦人は自分で車椅子を動かして、いつものティーテーブルについた。洋介も椅子を勧められた。

「温室に棕櫚があると熱帯植物園のような雰囲気になりますね」

 洋介が言うと、老婦人は温室内を見回して目を細めた。

「孫のお陰でここは少し不思議な植物園になっているわね」

 壁際に設置してある棚にはサボテンや多肉植物の鉢が並んでいた。蝶のコレクションだ、と老婦人は説明した。昨日蝶から聞いていたんだけど、はじめて知ったような顔をして「不思議な形をしていますね」と答えた。

 老婦人は奇妙な植物のことを話した。蝶は色々な植物を集めているんだけど、いわゆるモンスト種と呼ばれる、成長点に異常が発生して奇妙な形になったサボテンや多肉植物がお気に入りらしい。奇妙であればいいというものではなく、彼女にしかわからない感覚(老婦人は「蝶だけの審美眼」と笑った)で選ぶ。老婦人はそういうものに興味はなかったが、見慣れてくるとなかなか面白い、とつけくわえた。

「私も昔はだいぶ変わり者扱いされましたよ。血は争えないというか。孫が変わり者なのは当然でしょうね」

 蝶が変わり者なのは洋介も薄々理解していた。そうはいっても、老婦人に
「そのとおりですね」などと答えるわけにはいかず、「礼儀正しいお孫さんですよね」などと無難なコメントをした。老婦人は嬉しそうな顔をした。それから不意に本題に入った。

「お願いしたものはどうかしら」

 洋介は姿勢を正した。

「できています」

 そう言って自分のこめかみを指さした。

「いつでもお渡しできます」

 老婦人は目を輝かせた。

「では、お茶の前に」

 そう言って執事を一瞥した。執事は温室を出ていった。ふたりだけになると、洋介は立ち上がった。

「本当に、いいんですね?」

 洋介が最終確認をすると、老婦人は吹きだした。

「どうしてそんなことを聞くの?」

「リアルな記憶が流れ込むという感覚は経験したことがないでしょうから、だいぶ驚くと思います」

「遺言状は書いてあります」

 洋介は老婦人の両肩に触れた。

「目を閉じていてください」

 洋介は腰を屈めて顔を近づけた。老婦人は洋介の顔に呼吸がかからないように息を潜めた。肩に力が入った。

「力を抜いてください」

 洋介は老婦人と額を合わせた。

 霧が見えた。洋介は意識を集中した。霧の中を進んでいく。やがて霧の向こうから島が見えてきた。アイルランドの西にアラン諸島と呼ばれる島々がある。その中で最も大きいのがイニシュモア島だ。洋介には、その島にあるブラックフォートと呼ばれる遺跡の近くにある断崖絶壁が見えていた。
 岩畳の上を老婦人が歩いている。当時は三十代だったから、「老婦人」という表現は的確ではないかもしれないけど。

 強い風が吹いていた。どーん、どーんと岩盤に波が当たる音が響いている。見上げると、空が厚い雲に覆われていた。この島ではいつものことなんだ。もっと言えば、アイルランドがそういう土地なんだ。一日に一度は雨が降る。だからこの土地の人々は雨が降っても洗濯物を取り込まない。

 老婦人は振り返った。帽子を被って首にタオルを巻いた女が水筒に直接口をつけてお茶を飲んでいた。大きめのサングラスをしている。口を大きく開けて笑った。

「えっちゃん、すごい風ね」
 老婦人の名前は悦子という。
「さきちゃん、またお茶飲んでるのね」

 悦子は風に負けないように大きな声を出した。さきちゃんは水筒をナップザックにしまった。断崖の端のほうへ歩いていく。洋服が風にあおられて、ばたばたと音を立てた。

 岩畳の端につくと、さきちゃんは腹ばいになって崖の下を覗きこんだ。老婦人もそれに倣った。何十メートルも下に海がある。波が岸壁にぶつかって激しい音を立てていた。ふたりの女は波が砕けるたびに歓声を上げた。

「顔に水がかかるわ」

 霧吹きのように吹き上がってくる海水をタオルで拭った。さきちゃんが立ち上がった。老婦人が「危ないわ」と注意した。

「大丈夫よ」

 さきちゃんは老婦人に手を貸して立ち上がらせた。それからふたりは断崖を離れた。笑いながら。手をつないで。

 洋介は額を離した。老婦人はぼんやりとしていた。しばらくして口を開いた。
「さきちゃんに会いたかったのよ。あの頃はとても元気だった。彼女が病気をしてから、何年も会っていないんだけど」

 洋介は椅子に腰掛けた。執事が食器を乗せたトレーを運んできた。紅茶とクッキーを用意して一歩下がった。洋介は老婦人に勧められてからクッキーに手を伸ばした。三枚掴んで、そのまま口に放り込んで噛み砕き、紅茶で流し込んだ。

「がっついてしまいました」

 失礼を詫びた。老婦人は気にすることはないと首を横に振った。

「大変なお仕事よね」

「大変といえば大変ですが、やってみるとそれほどでもありません」

「超能力なのかしら」

「特殊な能力なのは否定しませんが、超能力という言い方はあまり好きではないんです。手を触れずに物を持ち上げたりするような力と一緒にされるので」

 老婦人は紅茶を飲んでため息をついた。

「こんなにリアルだとは思わなかった。顔を打つ風の激しさだけじゃなくて、その空気に含まれる水分なんかもきちんと思い出せた。これはあなたが作ったのかしら」

「もともとはあなたが持っていたものです。記憶が写真だとしたら、表面に積もった埃を払うようなイメージです」

「それだけ聞くと簡単そうに思えてしまう」

「どうでしょうね。僕はこの仕事が好きです。今回は、海外出張もできましたし」

 老婦人はもう一度目を閉じた。さいごの風景を味わっているんだ。

「目を閉じればいつでもさきちゃんに会えるのね」
 
 老婦人の目元が濡れていた。洋介は席を立った。執事と一緒に温室を出た。太陽がそろそろてっぺんにたどりつく。洋介はハンカチで汗を拭った。執事が小声で言った。

「大奥様にとって一番の宝物になるでしょう」

 洋介は自然な微笑みを浮かべようとしたけど、あまりうまくいかなかった。
 執事は少し前屈みになって囁いた。

「以前、お住まいに押しかけたことはお詫びします。正直に申し上げまして、あなたの能力を恐れていたのです。大奥様が洗脳されては困る、そう考えていました」

「でも、結局は阻止しなかった」

 執事は周りを見渡してから言った。

「少し遠回りをしませんか」

「いいですよ」

 雑木林へと続く小道を歩いた。
 執事が言った。

「この仕事のためにアイルランドにいらしたと伺っております。大奥様があの国にいらした時は、お友だちがご一緒でした。その方も『風景』の中にいらっしゃったのでは?」

「ええ。さきちゃん、と呼んでいました」

 執事は「やはり、そうですか」と呟いた。

「とても仲のいいお友だちでした。ここ数年はあのお方が病気で連絡が途絶えておりましたが……」

 執事は背広の内ポケットから手紙を出した。

「奥様宛のお手紙です。捨てておくように言われましたが……。もちろん大奥様にはお見せしておりません」

 差し出し主は松永となっていた。

「さき様の名字です。もっとも、このお手紙を出されたのは、娘様ですが」
 執事はそれをポケットに戻した。

「仲のよかった友だちに二度と会えないと知らされるよりも、すぐ近くにいると信じて生きるほうが幸せだと私は考えます。その思い出を大切に、大奥様には少しでも長く生きていただきたい」

「あなたの正直な気持ちですね」

「ご家族で決定されたことに従っているだけです。もちろん、私も同じ気持ちではあります」

 勝手口につくと、洋介は通りに出た。歩きながら、老婦人のさいごの風景のことを考えていた。中野区の住宅街を歩いているのに、アイルランドのブラックフォートにいると錯覚していた。アスファルトの路面はごつごつとした岩畳のように歩きにくかったし、強い風が吹いている気がしていた。疲れていたけれど、一番の親友がすぐそばにいる安心感が心を満たしていた。

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