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第9回 虚ろな真理子

  果穂から預かった風景はさいごの風景ではないから、喜びなんか見出せない。

 生きていれば、色々とある。それでも人はさいごの風景を持っている。少なくとも今までのクライアントはそういう人たちだった。でも、果穂のように、トラウマ体験だけを強烈に記憶していて、それ以外にはこれといって印的な風景を持っていない人も多いのかもしれない。

 マンションのエレベーターの中で洋介はため息をついた。背中を丸めて外廊下を歩いた。目の前に壁があるのを感じて顔を上げた。自分の部屋を通り過ぎて、通路の端まで歩いてきてしまっていた。

 部屋に戻ると、リビングのソファに真理子がいた。スマートフォンをいじくっていて、洋介が入っていくと顔を上げた。

イカスミパスタでも食べたのか」

 洋介が言うと真理子は大きな目をさらに大きくした。

「どうしてわかるの?」

「口についてる」

 真理子は口元を手で拭った。イカスミはまだ落ちなかった。ばっと立ち上がると、洋介を押しのけて洗面所に走っていった。しばらくしてタオルで口元を拭いながら戻ってきた。洋介は定位置になっている壁際のソファに腰を下ろしていた。

「またやったのか」

 真理子は洋介の向かい側のソファに腰を下ろした。虚ろな目をしていた。洋介は目を逸らしそうになるのをこらえた。

「どうしてそういうことをするのか教えてくれ」

 この話は何度もしている。真理子はいつもと同じ返事をした。

「飢え、なのよ」

「外食するなとは言わん。食べたら金を払え」

「あなたがみんなに売っているものが私にはないの」

 真理子のさいごの風景を見つけようと試したことがある。どこまで潜っていっても濃い霧は晴れなかった。記憶喪失じゃない。なにも残っていなかったんだ。それこそ果穂のようにトラウマの記憶でも見つかれば、納得できたかもしれないけど、それすらなかった。

「食い逃げ以外に楽しいことはないのか?」

 この質問もはじめてじゃなかった。真理子はふっと笑った。

「食い逃げが楽しいなんて言った覚えはないけど。洋服やバッグを買ったり、友だちと食事したり、楽しいことはたくさんあるわね」

「それが幸福だと思わないのか」

「そういうことができない人もたくさんいるのはわかっているのよ。その時は楽しいしね。でもすぐに飢えてしまう。あなたがいくら私の中を覗いてもなにも見つからなかったのはそういうことだと思う」

「楽しいことがあると自覚しているのなら、なにかしら残っていてもいいはずなんだけどな」

「あなたはそういう仕事をしているから、そう思うんでしょうね。ただ、それは誰にでも当てはまることではないの」

「それはおれも感じているよ」

「でもみんなそういう風景を持っていると信じているんでしょう。たとえば私だっていつかそういう風景を見つけて満足するって思っているんでしょう」

「それを信じていなければこの仕事はできないからね」

「私の頭の中を探したけど、なにも見つからなかったじゃない」

「いつか見つかるよ」

 真理子は寂しげに微笑んだ。洋介はぎょっとして目を逸らした。

「どうしてそんな顔をするんだ」

 それでも真理子は表情を変えなかった。
 洋介は立ち上がって真理子に背中を向けた。

「夕食はどうする?」

 真理子はまだお腹がすかないと答えた。聞くまでもない。
 結局洋介は焼きそばを作った。焼きそばを食べたかったわけじゃない。冷蔵庫を開けて目についたものを作っただけだった。食べていたら、イカスミパスタのことが思い浮かんだ。

 真理子はテレビを観ていた。バラエティ番組で、お笑い芸人が騒いで、ひな壇に座っているタレントたちが馬鹿笑いをしていた。それを観ている真理子は無表情だった。

 洋介は食事を終えてから食器を洗った。次に風呂の掃除をしてからお湯張のスイッチを押した。
 風呂が沸くのを待つ間、ソファに腰を下ろした。読みかけていたアインシュタインの相対性理論のページをめくった。時間の経過とともに移動する鉄の棒をイメージし、そこに取りつけられた時計の秒針についての説明を読んでいるうちに眠りに落ちた。

「お風呂沸いたけど」

 真理子の声で目を覚ますと、アインシュタインの名著が足元に落ちていた。洋介はそれを拾って立ち上がった。立ちくらみがした。頭を軽く振って、風呂に向かった。

 湯船に浸かって体を伸ばした。温もりに包まれていると「うーん」と満足げな声が出た。
 目を閉じた。居眠りの続きじゃなくて、風景を思い浮かべていた。

 マンションの屋上から新宿の方向を眺めている風景だ。厚い雲が空を覆っていた。風が頬をくすぐる。黒い雲の中で雷が光って、少し遅れて、ごごごごごごという音が響いてくる。

 洋介は目を開けた。その目にはなにも映っていなかった。まだ完全には現実に戻ってきていなかった。しばらくそのまま身動きしなかった。

 風呂から上がってリビングに戻った。テレビがつけっぱなしになっていた。リモコンを取り上げてテレビを消そうとした。ふと傍らを見ると真理子がソファに座っていた。
 洋介はぎょっとした。
 真理子はさっきと同じようにテレビを観ていただけだ。でも洋介は彼女がいることに気がつかなかった。リモコンをガラステーブルの上に戻して、ソファに座った。それからまた相対性理論を開いた。

 バラエティが終わってニュース番組になった。洋介は本を閉じた。真理子は動かなかった。洋介がテレビを消した。それでも真理子は反応しなかった。

「風呂に入らないのか」

「後で入る」

「テレビ、面白いか?」

「そうでもないかな」

「だったらなんで観るんだ」

「観たいから。あなたは私がテレビを観るのが気に入らないの?」

「そういうわけじゃない」

「だったらどうしてテレビを消すの?」

「観てないのかと思って」

「観てるわよ」

「モニターを眺めてるだけだろ」

「それでいいじゃない」

「よくないだろ。そんなの時間の無駄じゃないか」

 真理子はため息をついた。

「私はテレビを観て幸せになろうなんて思ってないの。あなたのお客になるような人間じゃないのよ」

「どうしておれの客が出てくるんだ」

「あなたのお客は、どうすれば自分が幸せになれるかわかっているのよ。私はそういう人間じゃないし、今さら幸せを探そうとも思わない。映像が動いたり音が出たりするのを眺めているだけでいいの。だから放っておいてよ。あなたは自分が幸せにしてあげられる人が望む物を与えてあげればいい」

 今度は洋介がため息をついた。

「そうだな。そうしよう」

 寝室にいってベッドに横たわった。
 目を閉じて風景を思い浮かべた。
 江の島の弁天橋の近くだった。太陽が照りつけていた。額の汗を拭った。洋介が、というよりは風景の持ち主が、ということだ。

 海水浴客たちがはしゃいでいる。
 江の島を眺めた。島の頂上に展望台がそびえてる。上空を鳶が旋回していた。胸のあたりがほっと温かくなった。

 洋介も微笑んだ。瞼を閉じた目の端から、涙が滲み出た。拭ったりはしなかった。その涙も含めてさいごの風景かのように。
 ずっとその風景の中に佇んでいた。

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