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『現代短歌』2021年3月号

①佐伯裕子「『鵞卵亭』のリアリズム」〈精神の比喩表現を写実の描写が支えている。そこに新しいリアリズムが感じられたのである。〉リアリズムという評語は何度でも再定義される必要があると思う。

〈従来の生活リアリズム短歌ではなく、また塚本邦雄が主張した「魂のレアリスム」でもないのだろう。出奔後の大きな時代の変化にあたり、「今までに無かったリアリズム」の創出を目ざした、と(岡井隆)は記す。〉様々な色合いのリアリズム。この評語のイメージはどこまで共有されているのだろう。

②「岡井隆の歌集を読む」岡井隆の『現代短歌入門』について。大辻隆弘〈近代短歌(岡井にとってそれはアララギの短歌でした)を克服したり、超克したりするのではなく、それを新たな基盤の上で摑み直し、もう一度しっかりした論理的基盤に据え直す。(...)例えば、前衛短歌が敵としたアララギの「事実尊重」の思想の背後には「事実に即した方がより効果的だ」という冷静な作歌的判断があったことを指摘した部分…〉ほかにも挙げられているが、このアララギの「事実尊重」に対する摑み直しは、今考察されるべき時期かもしれない。リアリズム、事実、虚構、等。

③川野芽生「幻象録」〈ちゃちな「人生で経験すべきことリスト」にチェックを付けるようにして現実なるものを体験するのではなく、〉川野のこの文はとても誤解を招くと思う。というか私も川野の意図を汲めているか自信が無い。おそらく文学の在り方について述べているのだと思うが、この論を最初から読んでいくと、「人生で経験すべきことリストにチェックを付けるように生きている人」を批判しているように読めるのだ。そういう人が他人の人生に対して、人生ではこれを経験すべきだ、と口を出してくることへの批判が論の中で大きなウェイトを占めている。たしかにそんな人はいる。

 しかし他人の生き方に口を出さず、自分の選択として、経験すべきことリストにチェックを入れながら生きている人は大勢いるだろう。何なら私もその一人だ。それに対して「ちゃちな」ということは、川野自身も他人の生き方を否定し批判していることにならないか。そのつもりは無いと思うがそう読める。

④山田航「谷岡亜紀『ひどいどしゃぶり』書評」〈日常的動作の向こう側にある複雑な心理の迷宮を突っ込んで描くことはあえてせず、ある行動によってどういう状況が生まれ、どういう世界の変化が起こったのかということだけを提示してみせる。近代短歌のリアリズムの方法は、思った以上にハードボイルドに向いている。〉ヘミングウェイの小説について、これに近い評が書かれている。〈谷岡亜紀は、近代短歌のリアリズムを再解釈・再規定している。〉谷岡の短歌について的を射た意見だ。近代短歌のリアリズムについても再考すべき時期が来ていることを感じさせる。

⑤『現代短歌』3月号を通して、リアリズム、特に近代短歌のリアリズムということについて、考えさせられる論が多くあった。今、近代短歌的写生や具体に即したリアリズムなどは流行らないように見える。しかし、短歌という表現の底に、地下の水流のように流れているのではないかと思った。

2021.2.26.~28.Twitterより編集再掲