見出し画像

『塔』2023年4月号(1)

おほかたをコロナのせゐにしておけばああやはりといひてうなづく 真中朋久 ここ三年ばかりはそうだった。コロナで…と言えば、通ることが多かった。コロナの初期はイライラしたが次第にいいように利用する事を覚えたのだ。今後、元に戻る事と戻らない事があるだろう。

雨の日の家にはだれかいてほしい五匹のめだか泳ぐこの家 松本志李 晴れた日はそうでもなくても雨の日は寂しく心細い。五匹のめだかはいる、あるいはめだかしかいない。自分の家の中で寂しいのならどこへ行けばいいのだろう。  
 塔新人賞ご受賞おめでとうございます!

やさしさを装うことのむずかしさ 家族は水みたいなもの、だろうか 山川仁帆 本当に優しくするどころか、優しさを装うことすら難しい。家族は唯一のものだが、お互いの存在を水のように、あって当然のものと思ってしまうのだ。  
 塔短歌会賞ご受賞おめでとうございます!

ナースステーションの中は健康な人ばかりガラス一枚隔てた世界 田中律子 入院したことのある人なら分かる感覚だ。自分のいる世界とナースステーションの中は違う世界。向こうがこちら側に来ることはあっても、自分はあちら側へ入れない。そここそが「世の中」なのだ。

誰のせいでもないのがいちばんやっかいと声は投網に獲るようにくる 中田明子 関係者が一様に傷つくのに、誰のせいでもないという事態が一番辛い。誰の責任も問えない。それを何かの声が伝えて来る。下句の比喩が上手いと思った。暴力的に自分も捲き込まれていく印象だ。

死後の僕は僕が死んだら消えるから二人で話しながら歩いた 吉岡昌俊 上句は逆説的なのだが、死後の僕は、所詮僕の意識の所産に過ぎないという認識が光る。他人の意識の中の死後の僕など関係無いのだ。僕と死後の僕が話しながら歩く。僕が死んだら出来ないこととして。

右足に鉄を踏みたり暮らしにはをりをり渡る踏切がある 小田桐夕 下句は当たり前のことなのだが、それを上句で言い換えている。線路は確かに鉄なのだが、「鉄を踏」むと言うと、踏切を渡ることが急に非日常の色彩を帯びる。特に「右足で」という細かい観察が活きている。

ねむりという雨だな はるかとおくから落ちてくることは降ると呼ばれて 紫野春 眠りに落ちる時の意識の遠のく感覚を雨に喩える。遥か遠くから落ちて来るのは雨であり、自分の中に訪れてくる眠りでもある。「呼ばれて」と不特定の意見のように提示したところに惹かれる。

まとひゐる泥を落とせばこんなにもうすき皮膚なり牛蒡のからだ 越智ひとみ 確かに牛蒡の泥をこそげ落としたら皮と呼べるものはほとんど無い。それを皮膚と表現した。泥つきだと野太い感じだが、落とせば白くて繊細な肌だ。すぐアクが浸み出すまでの一瞬の印象を捉えた。

トナカイをかぶる児を抱き写真撮るぷつくり温しトナカイさんは 河野正 幼児がトナカイのかぶり物をかぶったら可愛いに決まってる。反則だなー。「ぷつくり温し」が目に浮かぶ。形状を表す語が寒暖を表す語を形容しているとも、別々にトナカイを叙述しているとも取れる。

2023.4.23.~26. Twitterより編集再掲

この記事が参加している募集