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河野裕子『はやりを』 7

みづうみはみづのぬくもり抱きてゐむゆふべ泣く子は腕にあふれぬ 河野は滋賀県の育ちなので琵琶湖と取った。夏の夕べ、湖の水はぬるくなっているだろう。湖から溢れそうな水を思い浮かべる。腕の中で泣いている子は腕からこぼれ落ちそうだ。イメージが重複する。

ひとまたぎ向うの闇にぞよぞよと人頭の気配、古代へ跨ぐ 自分の家のすぐそばで地面を一跨ぎした、と取った。その向うの闇に、この地で生きて死んでいった人の気配が「ぞよぞよと」感じられる。その一跨ぎは古代への一跨ぎだったのだ。少しも不自然な感じが無い。

脱皮とは一気におのれを裂く力背をたち裂きて蟬がおのれ生む 河野の蟬の歌はほとんどその鳴き声を詠ったものだ。このように視覚で捉えた歌は珍しい。蟬の脱皮を詠って、なぜか読む者が励まされる歌。河野自身も蟬から生まれなおすことの気概をもらっているようだ。

菜(な)も魚(な)も肴(な)素材いろいろ楽しくて男らに背を向け流しに向ふ 議論に夢中な夫ら男たちに酒の肴を作っている。おそらく短歌の議論。後で主体も加わるのだろうが、まずは肴、それも楽しみながら作っている。時代もあるし、作者の考え方もある。
 菜(な)も魚(な)も肴(な)、という初句が楽しい。これを読んで土屋文明の『韮菁集』の一首、 「馬(うま)と驢(ろ)と騾(ら)との別(わかち)を聞き知りて驢来り騾来り馬(うま)来り騾と驢と来る」 を思い出した。こちらは同音では無いんだけど。雰囲気が似てるというか。

手をつなぎ子らと歩めりかじかみのゆるぶ過程がつぶさに楽し 子供たちを右手と左手に繋いで歩いているのだろう。最初は寒さにかじかんでいた子供たちの手が次第に温まってくる。その過程が楽しい。「過程」という堅い語が、小さな発見を歌にするのに効いている。

ぢりぢりと横いざりしつつ砂の上に驢(うさぎうま)描く子その子がわが子 砂の上に棒か何かで驢馬の絵を描いている子。絵が大きくなり横にじりじりとずれながら描く。その子がわが子なのだ、という再認識の瞬間。子の三回の繰り返しが、読者にも追認させる。
 のちの歌集で、子供たちが驢馬のぬいぐるみを愛していた、という追想の歌も詠われている。その驢馬の絵を描いていたのかもしれない。
 子供らが耳につかまり育ちたるぬひぐるみのロバ汚れて失せつ 『家』

2023.4.9. Twitterより編集再掲

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