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『現代短歌』9月号

雨は楽器さうだつたのに雪となり あ でもあなたも楽器だ、とても静かな 藪内亮輔 六・七・五・十一・七と取った。「あ」が一音で一句を成していて、六・七・五・一・十・七の六句仕立てにも見える。しかし、一番気になるのは、一字空けや読点を駆使して切れ目を強調しながら、初句切れのところは一字空けも何もしていないところ。はっきり分かるからだろうか。初句切れなのがこの歌の魅力の一つでもある。意味的には雨音が消えて雪になり、その時、あなたも楽器であり、しかも静かな楽器だと気がついた、ということだろう。
 心の中の発話を「あ」と示すことによって、リアルタイムで詠んでいる感が増す。下句も詩的で、四句の重さが気にならない。楽器である以上音が出るので「とても静かな」とは微妙に齟齬があるのだが、他の楽器と比較すると、ということだろう。指すのが人間なので納得できる喩だ。

②大下一真「短歌歳時記」楢山をゆさぶりながらしののめをかなかな蟬が叩き出したり 山崎方代 〈朝夕の涼しい時間に、かなかな蟬は鳴く。朝はまずかなかな蟬の声に起こされるのだが、この一首の蟬は実にたくましい。〉しののめを叩き出す、というのが喩でありながら描写のようだ。

ヒナゲシが目を見開いてゐるやうに戦争がきた道にくれなゐ 梅内美華子 そう言われてみれば、ヒナゲシの赤い花びらの真ん中の蕊の部分は、目のように見える。目を見開いているように立つ尽くすヒナゲシ。そのように点々と道に続く赤い色。おそらくは血、とそれに象徴される死。

トンネルを歩き続けて振り向けば息子は見えず 前方も闇 大口玲子 実景だろうが、全体が喩のような一首。後ろを歩いていたはずの息子の姿が見えない。前も闇で何も見えない。戦争の歌の一連の一首。戦争には心を痛めながら、自分にはわが子が一番の心配ごと。心を晒した一連。

はい、これは分詞構文、ニューヨークタイムズの弾むような文体 大松達知 英語教師である主体は、ロシアのウクライナ侵攻を告げるニューヨークタイムズの記事を教材に、英語の授業をしている。初句二句は主体自身の発話だろう。
 カビの生えたような古い英文ではなく、今起こっているニュースを教材にするというのは英語教育では望ましいことだ。生徒にもインパクトがあるだろう。ただ、内容が悲惨なのに、英文の文体の調子に視点が合っていることに言語教師の業のようなものを感じる。

戦争が終わったら種を蒔くという老いたる人の手の中のたね 沖ななも テレビの映像だろう。老いたる人は農業従事者か、ガーデニングに使うのか。種は希望。この人の前提に「戦争が終わったら」があるのが救いのように思う。同時に種が蒔かれない可能性にも思いは到る。

哀しみは野草に似るやこぼれたるのち芽吹くなり季のめぐりに 栗木京子 哀しみはすぐに兆すものではなく、その種が零れた後、季節が巡って芽吹くのだ、と詠う。まるで野草のように。時を経て訪れる哀しみこそ真の哀しみなのかもしれない。

ビルはただこはれるまへの瓦礫として夕景といふうつはに沈む 佐原キオ いずれ壊れ、瓦礫となるビル。戦地だろうか。夕方の景色が器のようにビルを囲み、ビルは沈み込むようだ。だが、全ての建物は時が経てば瓦礫となる。私たちもいずれ瓦礫になる風景の中にいるのだ。

砲撃に腹の裂けたるぬひぐるみ拾はずにみる幼きものは 馬場あき子 砲撃で腹の布が裂け中の詰め物が見えているぬいぐるみ。傍で見ている幼い子の持ち物だったのか。あるいは通りがかりの子か。真っ先に拾いそうなものだが、子供は眼を見開いてぬいぐるみの死を見ているだけだ。

満月が海照らすゆえ休漁日診療所には漁師がならぶ 北辻一展 詞書は「月夜間日(つきよまび)という」。満月の日が休漁日だということ、それに月夜間日という美しい名前がついていること、その日は漁師たちが診療所に訪れること。事実を淡々と詠って素朴で詩情に満ちた一コマだ。

米小豆小指頭母指頭鶏卵鵞卵ものに例うる腫瘍の大きさ 北辻一展 食べ物の話…?と読んでいって腫瘍の語にハッとする。そう言えば鶏卵大は聞いたことがある。一般的なものに例えているが、医療の用語なのだ。強い感情を表す歌が多い現代短歌の中で、この歌の佇まいに惹かれる。

山奥にしずかに光る湖よ婦人科に両脚ひらきつつ 北山あさひ 婦人科の椅子に座る不快感を和らげ、心を落ち着けるために、目を閉じて深呼吸しているようだ。その時、山奥のしずかな湖を思い浮かべる。それは自分の身体の中にある子宮という湖を思い浮かべることでもある。
 この歌を読んで
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり 河野裕子
を思い出した。

⑬楠誓英「時評」 大松達知の「「きみ」は誰だ?山下翔『meal』冒頭の五首について」(「詩客」短歌時評)を取り上げている。 大松〈一首目から赤ん坊を抱いているのは母親だと決めつけて読んでしまった自分を恥じたのは、あとになってのこと。(…)〉 大松の時評を一部引用し、楠は〈読みにひそむ「偏見」に自覚的であり、大松がとても誠実な歌人であることは間違いない。〉と大松の態度を認めながら〈「きみ」がどうして異性になるのだろうか〉と疑問を呈している。これは連作の問題にも繋がることだ。一首では分からない歌が、連作の中では互いの背景になり、分かってくる。
 作者はこの連作の特性を充分に使って、読み進むうちに事情が分かって、一首目を読み直すように構成しているのだと思う。ジェンダーに無自覚な読者に意識的に挑戦しているのだ。だから、読めなかったと恥じるのも、どうして読めないのかと言うのも違うように思う。これが連作を読むということだろう。

2022.8.26.~30.Twitterより編集再掲