二つの相互批評から見えてくるもの(前半)【再録・青磁社週刊時評第一回2008.6.16.】

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)

二つの相互批評から見えてくるもの(前半)  川本千栄


 「かりん 三十周年記念特集号」は二〇〇八年五月号六月号にまたがる分厚い分冊であり、一方ならぬ熱意を感じた。作品・評論共に内容が濃いのだが、特に六月号所載の座談会が面白かった。タイトルは〈「かりん」の現在と未来〉、出席者は安藤淑子・大井学・尾崎朗子・日置俊次・松村由利子・梅内美華子である。出席者がそれぞれお互いの作品を選歌して、その歌のどの部分が良くてどこが悪いのかを、その作者の歌作上の特質なども鑑みながら相互批評する、という趣旨である。
その中で、梅内美華子の「満ち満ちて李朝白磁の大壺はおのづから割れるときを夢見る」という歌の解釈を巡って、「われ」について少し議論が交わされている。

 松村 細かな部分ではなくて「李朝」というような言葉があって、遠い過去から今に至るまでの時間を読み込んでいる。またその「大壺」が自分であるという「われ」の提示の仕方が魅力的です。(…)詠う対象と自分と、非常にぴったりとくっつく感じがある。「なりかわり」という言葉がありましたが、ひしひしとその痛みを感じるという部分がないと、よい作品は作れないということを思わされます。
 梅内 (…)皆さんは歌の中の「われ」、「主人公」、「主体」の振幅をどのように考えますか?私は自分の作品では割りとそういう振幅があると思っています。(…)振幅をおこさせるものとして(…)一番身近な他者との齟齬とか、生き難い世の中だと感じること(…)そういうものをそのままストレートにあらわすのではなく、わたしでいえば「満ちて満ちて割れたい、切れたい」みたいな。そういうモノに託す時に、自分を生で出すよりは美しいものが破裂するような危うさというか。そういうものに行ってしまうんですね、私の場合。それも「振幅」と思うんですが。
 日置 それをストレートに言わない、「わたし割れちゃう」と言わないのが「かりん」だと思うんです。

 最初この歌に対して松村が、「大壺」は自分である、という解釈を述べた時に、私は腑に落ちなかった。大壺を擬人化して詠っている、というところまでは読めるのだが、それを「自分」とまでは取り切れなかったのである。松村の発言を受けて、梅内自身が少し作歌工房的なものも明かしながら、「自分」というものの振幅に触れている。これを読んで私も、「自分」を表現する時の振幅というものを作歌の場面から納得することができたのである。
 歌壇では「私性」に関わる論議がここ数年盛んだが、「現実のわれ」と「虚構のわれ」との二項対立として捉える論や、社会の変化に伴い「われ」が揺らいできているという論、といった論が繰り返されていると感じる。しかし、歌を作る時に「自分」をどのように託すかといった作歌側からの、ある意味素朴な把握の仕方は、案外提示されて来なかったのではないだろうか。梅内の説明からは、歌を作る勢いが高まってうまく表現に乗った時の状況が、力を持って伝わってくる。作者が言語化することによって、実際の歌における「われ」の表し方を、他者も知ることができるのである。
(続く)

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