河野裕子『はやりを』 17
語らずなほも語らずそのひとの寡黙の舳先にわれは夜の海 初句四音。初句二句が一続きのように読め、独特のリズム感がある。「そのひと」を船に喩えている。寡黙な船。その船の舳先に広がる夜の海として自分も寡黙にありたいと願う。船に併走し、受け止める海だ。
子の友が三人並びてをばさんと呼ぶからをばさんであるらし可笑し 自分は若いつもりでいても子供の友達から「おじさん」とか「おばさん」とか呼ばれると、急に年を取ったような気がする。そんな自分の中の一瞬の驚きを「あるらし」と推量で、「可笑し」と余裕を持って受け止めている。
この歌の詠われた時代には、「子の友」からすればそうとしか呼びようが無かったのだが、血縁以外からそう呼ばれたくない人もいるだろう。最近では「誰々ちゃんママ」とか「誰々ちゃんパパ」と子供の名前を付けて呼ばれることの方が多いかも知れない。
朝起きてまづ聞きしこゑわがこゑは語尾をあげ下げ子を呼びてゐる 自分の声を聞きながらその語調を確かめている。時に優しく、時に厳しく声をかけて、学校へ行くための用意をさせる。子供を送り出すまでの慌ただしさの中で、自分の声を冷静に測っているのだ。
ものの隈さだかにあらぬひのくれにビー玉のみどりは子よりわれの掌(て)へ 初句二句は河野に特徴的な、夕暮れの描写だ。夜になり電灯をつける前のぼんやりした明るさの中で、ビー玉の緑色がはっきり見える。ビー玉が移るのではなく、緑が手から手へ移るのだ。
その男永田和宏を会衆となりて眺むるはほどよく愉快 いつも家で見ている夫が、講演か対談か、壇上にあるのだ。夫の緊張のさまも興に乗って話すさまも、心の具合が手に取るように分かる。そんな自分が会衆の一人として、他人のように夫を眺めるのは愉快だ。
「その男」という他人めいた、小説めいた言い方と対比した、「ほどよく」が効いている。これが無いと突き放し過ぎた印象になる。また、「眺むる」という動詞の終止形をいきなり「は」で受ける、文語的文体が一首を引き締めている。口語体だと「眺めるのは」と「の」が入るところだ。
2023.6.19. Twitterより編集再掲