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河野裕子『はやりを』 15
砂丘産二十世紀食ひて雨の廊下渡りてゆくは抱擁のため ニ十世紀は梨の銘柄。砂丘産は鳥取産ということ。廊下を渡る、でかなり広い建物を想像する。自分の家かも知れないが、その抽象的な表現で浮かぶ風景に広がりが出て来る。そして全ては結句を言うためにある。
月待ちて鮒の話をしてゐたら 草の暗がり鮒泳ぎ出づ 不思議な印象を与える歌。池の傍で月を待っていた。池の鮒の話をしていた。一字空けに長い時間を感じる。その後、草の蔭の水に鮒を見た。事実はそれだけ。月はどうなったのか、と思うような唐突な終わり方だ。
真剣に子を憎むこと多くなり打つこと少くなりて今年のやんま 子の成長につれて母子の一体感は失われていく。子は子の意志を強く見せ始める。それが不安で不満な母は、真剣に子を憎むと言い切ってしまう。一体感が薄れたからこそ打つことには遠慮が出て来るのだ。
日日の水流し米磨ぎ飯たきて面白やわれに刀自(とじ)の貫禄いよよ 毎日の料理を水と米で具体的に表す。料理そのものを、又主婦としての貫禄が益々出て来た自分を、面白いと思う気持ちを重ねる。本当に好きで主婦をしている、という宣言のようにも読める。
桃食みて世はこともなし肉体を武器とせぬ時代(よ)は甘く饐えつつ 「神、そらに知ろしめす/すべて世は事も無し」ブラウニングの詩の一節が浮かぶ。この歌が詠まれたのは昭和50年代後半。豊かで平和な日本。戦争は遠い過去の事になった。文化は爛熟している。
貧しさの中で体当たりで生活してきた父祖の時代をぼんやりと思い浮かべているのだと取った。だからといって今の方がいいとか、悪いとか主体が言っているのではないと思う。「饐えつつ」にかすかな批判があるのかもしれないが、主体自身の気分も物憂い印象だ。
2023.6.17. Twitterより編集再掲