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『歌壇』2023年1月号

①「ことば見聞録」
赤坂憲雄(民俗学者)〈3・11の夜から、歌人と俳人は大量の作品を作り…、「それは一体、何なのだろうか」と。(…)定型の力というのをもう一度、きちんと考えなくてはいけないなと思いました。制約のない言葉というのがどれだけ無力であるか、どれだけひ弱であるか。守られてないんですよ、散文の言葉は。唯一、ツイッターであり、歌や俳句であり、定型の力によって守られている言葉の器こそが、混乱状態に右往左往している人間たちが混乱をそのままに流し込めるというか、叩き込めるということなのかなあと思ったんですが……。〉
 印象的な点が二つ。まず、一つは短歌や俳句は定型の力によって守られている、散文は守られていないという感覚、定型が言葉を守る器だという感覚。二つ目はそれにツイッターが入っているということ。おそらくは和合亮一の自由詩を意識しての発言だと思うが。文字数の制約が定型として働いているという感覚だ。

②赤坂〈いろいろな災難に見舞われながら、苦しみあがいてきた歴史が、浄瑠璃という、それこそ定型的な語りの仕掛けに乗せて語られるのに耳を傾けるわけです。それはまさしく浄化の場であり、鎮魂や供養の場なのです。苦難や傷ついた魂を浄めて、悲しみを癒す。(…)〉
川野里子〈定型なんですよ。短歌もそれに近いかも。〉 赤坂〈たんに定型の力というだけではなくて、その定型的な仕掛けに体験とか自分たちの歴史みたいなものを託し揺すってやることで、いろいろな人たちと繋がりながら、それを贈与するというか。〉
 ここ、とても深い。この後、話は、浄瑠璃語りと石牟礼道子の語りとの関係性、さらには短歌と私小説の問題へと及ぶ。石牟礼の言葉は「人間の原存在みたいなところに降りていって、そこから発せられた言葉だから強い」という赤坂の発言も心に響いた。

③赤坂〈芸能とか文学は定住と遊動のはざまに織り成される、ある種の文化の仕掛けだと思うのですが、それを背負わなくては大きな共同体の悲しみや苦難を祓い棄てることはできないのです。だから「内なる語り」と「外なる語り」のせめぎ合う文化的な構図を考えてみたいのです。(…)巨大な厄災に向かい合うには、村の内なる語りとか、村の内なる芸能は無力なんですね。だからこそ、石牟礼さんは共同体の内なる語りや内なる芸能ではなくて、やはり浄瑠璃語りのような遊動性を持った外なる語りや芸能へと向かわざるをえなかったのだ、と思うのです。(…)〉
川野〈(…)漂泊性をもった非日常の言葉、つまり近代が捨ててきた言葉の意味を考えなくては。〉  この辺り、とても面白かった。共同体の厄災を外から来るマレビトが浄める、浄化するという辺り。一部引用では伝わり難いが。石牟礼道子の果たしたことなどについての新たな視点を得た。

④赤坂〈彼らは気味悪がられたり、排斥される対象であるにも関わらず、ときには招かれて、共同体の内なる祭りや儀礼によっては祓いきれない穢れや災厄といったものを、浄化する役割をひそかに担ったのです。心身の極みを生きていた人々です。  
 そんなふうに考えていると文学や芸能にとっては、ある意味で自分を傷めつけながら引き受けることこそ本義なのかもしれない、と思うところがありますね。(石牟礼さんが)みずからの身体を極限まで傷めつけながら、背負っているものの巨大さに眼が眩みます。だからこそ、ああいう豊饒なる文学が生まれたんだと思います〉
 川野里子と民俗学者、赤坂憲雄の対談。とても強い印象を受けた。近代的な意味でいうところの文学とは違う文学や芸能を意識した。短歌の話ばかり追っていると、見えて来ない視点だと思う。

⑤山木礼子「時評」〈「現代短歌評論賞」は三つの課題からの選択制であったが、受賞二作とも「①口語短歌の歴史的考察」を選んでいる。(…)『キマイラ文語』(川本千栄)とともに今年つぎつぎに出た考察は、あきらかにこれまでの口語、文語をめぐる論調からの脱皮、あるいは積み重ねを経た手ごたえを予感させる。〉
 時評で『キマイラ文語』を挙げていただきました。ありがとうございます。文語口語を巡る議論が変わりつつあることに触れている論で、もっと私自身も考察を深めていきたいと思った。

⑥桑原正紀「ようこそ、歌の世界へ」 地下ホームを来る四、五人の女生徒の、いや先だてる伊須気余理比売(いすけよりひめ) 高野公彦〈すぐれた歌人は、血脈の源流を尋ねるように、歌謡を含めて古典をよく読んでいることがわかります。古典は決して化石のような遺物ではありません。〉
 古典を知っているだけでなく、この高野の歌のように現代にそのまま活かせるかどうかが鍵なんだろうな。この歌は場面の切り取りが鮮やかで、時空を超えて魅力ある人物が現れたような感覚を抱かせる。

⑦谷岡亜紀「鑑賞佐佐木幸綱」暗き運河に浮き居て鴨は百年の静止の時を楽しめるらし 佐佐木幸綱〈一読絵画的な作品である。近代期において描写詠の中心をなした理念は「写生」「写実」であり、特にその究極は「客観写生」と呼ばれるものだった。人間の目と脳を通して認識する世界にはたして「客観」ということが有りえるか、というのは大きな哲学的命題だが、それに対して(佐佐木の)『旅人』の諸作品は、同じ「描写詠」でありつつも、絵画的な印象が強い。〉
 佐佐木幸綱の歌を通して谷岡が展開する「客観写生」についての話が面白い。絵画と短歌の関係を再認識させる読みだ。

2023.1.16.~18.Twitterより編集再掲