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『短歌研究』2022年6月号

崖の村ラヴェッロの古き教会の窓より見てゐしアマルフィの碧 永田和宏 「碧」は「あお」と読みたい。連作のテーマの合間にある背景としての一首だがとても美しい。崖下に、眼下に広がる南伊の海、実景の裏づけがあるからこそ最小限の名詞で風景を描写できるのだ。

かはうそだつたら並べてからはやらないならべるのは殺してから 平井弘 平井の歌は相変わらず不気味だ。連作一首目と最後の一首で、何か取り替えしのつかない事が始まってしまい、もう戻せないという設定は分かるが、それ以上のことは分からない。ウクライナのことなのか。
    繰り返し現れるカワウソの象徴するものは何だろう。挙げた歌では獺祭が背景にある。カワウソは殺してから魚を並べるが、この歌の「何か」は「他の何か」を並べてから殺すのだ。カワウソだってそこまでしないのにね…と。既に絶滅したはずのカワウソが連作のあちこちにちらちら顔を出す。

③特集「正面からの「機会詠」論」 堤防に続く黄の花の導火線 胸に火を抱く者近づくな 伊藤一彦「うた新聞」2022年4月号
    春日いづみ〈抄出歌は、侵攻が始まった直後の二月末から三月始めに詠まれた作品だろう。〉とてもいい歌。春日はいくつか挙げた歌を、個別には読んでない。読みを聞いてみたかったなー。私も『うた新聞』の同号は読んだはずなのにこの歌は見落としていた。ウクライナを詠ったなら黄の花はひまわりだろうが、この歌は菜の花っぽい。「導火線」の語と、下句が抜群。ウクライナ以外の場面にも当てはまりそうだ。戦争以外でも。

④特集 未だ尚筆舌にわが尽くしがたし八月六日に子供記者の来て 西田郁人「心の花」2019年11月号
大口玲子〈被爆体験は言葉で表現できないということを当事者が述べている(…)70年以上たっても子供たちに語れないのだという当事者の告白の重たさに戦慄しつつ、当事者でない私が原爆を詠むことの意味を考えさせられる。〉大口の真摯な問いが胸に響く。機会詠はニュースなどに反応して、自己から離れたものとして詠むのではない。その出来事が自分の中に無いと詠めないのだ。それは当事者であるかどうかとは違うと思う。

⑤「萩の舎 歌修行」今井恵子〈(桂園派は)「しらべ」を歌の根幹と考えます。これとは別に、江戸には、賀茂真淵の流れをくむ江戸派と呼ばれる加藤千蔭や村田春海という人がいました。江戸派は「まこと」を大事にします。〉まこと、か。江戸派のことはあまり知らないなあ。
〈中島歌子は、(…)両方の影響を受けていたように思われます。〉そうなんだ。明治の旧派は桂園派と思っていたが、江戸派の影響もまだあったのだな。幕末には堂上派も江戸派も、桂園派に近くなっていた、と思っていた。やはり物事はそう単純ではないのだな。

⑥吉川宏志「1970年代短歌史」〈岡部桂一郎は前衛短歌を「頭脳」的と捉え、それとは逆に、葛原妙子の歌を「肉体から出てきた情感」と評するのである。この二分法は単純化しすぎであろうが、(…)〉
〈「反写実」イコール「前衛」ではない、という主張にも注目したい。〉
 二分法を相対化しようという視点がいい。何にしろ二分法は危うい。簡便ではあるのだが。他人の作った二分法に乗って議論すると、自分の足元を見誤る恐れがある。

⑦吉川宏志〈重要なのは、何でもない日常生活の風景から「不安」を感じ取ることも「知性」の働きなのだ、と葛原妙子が指摘していることだ。〉この葛原の指摘は極めて真っ当なものに思えるが、これがなかなか通らない時代があったというか、葛原たちが切り拓いてきたと言うべきか。

⑧佐藤弓生「人生処方歌集」一首引いていただきました。
黄の色の口の尖れるチューリップ何かもう真っ直ぐにも疲れちゃって 川本千栄『樹雨降る』 〈「何かもう」以下のくだけた口調から、作者と世間話をしている気分になります。〉ありがとうございます!

⑨「作品季評」川本千栄「火」(21首)(『短歌往来』12月号)について
川野芽生〈この連作はすごく迫力があって惹かれました〉 工藤吉生〈嫌悪感が全体からすごく匂い立ってくる連作〉 穂村弘〈迫力と圧のある連作です〉 3人の評者の皆さんありがとうございます。うれしいです!

2022.6.16.~17.Twitterより編集再掲