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『短歌研究』2023年9月号

そのひとがだんだん嫌ひになつてゆく仕方のなさに半夏生垂れ 米川千嘉子 ある人を一度嫌だと思い出すと、今まで何とも思わなかったところも目について、だんだん嫌いになってゆく。半夏生の色が変わるように仕方の無いことなのだ。「垂れ」で半夏生が目に浮かぶ。

その舟は絶望的にながれゆく身の憂さばかり金いろの舟 米川千嘉子 「その舟」は前の歌から「浮舟図屏風」に描かれた金色の舟と分かる。匂宮と浮舟を乗せた舟。この後、痴情に溺れていくことになる浮舟の気持ちを、「絶望的」「身の憂さ」と詠む。考えさせられる。

肉体のあらゆる部分あるじなるわれに失意をあたへ、秋風 米川千嘉子 身体のあらゆる部分が何となく不調。主であるはずの自分の言うことを聞いてくれない。おそらく主体の加齢が背景にあるのだろうが、身体の部分が自分に失意を与える、と捉える。秋風、で締める。

④座談会「『万葉集』を成り立たせた帝国的想像」
品田悦一〈私が二十年前『万葉集の発明』に書いたのは『万葉集』が国民国家の文化財として近代に発明されたということですが、それだけでは足りないとダシ―さんの本に指摘された格好だと思うんです。〉
 『万葉集の発明』はすごく面白くて、でも二十年前の自分には理解が行き届かないところもあった。さらに研究はどんどん進んでいるのだ。もっと勉強しないと、だなあ。一人称主体の話などはとても惹かれて読んだ。

⑤寺井龍哉「あらゆる場所に万葉が・・・」
〈古典和歌を平易な言葉に翻訳して示した試みの例としては、すでに本居宣長『古今集遠鏡』があった。宣長は古今和歌集の歌の表現を軽快な言葉に言い換えており、〉
 これが当時の口語「同時代語」なのだろう。古びて見えるが。

⑤寺井龍哉
〈古典和歌に対して、同時代の読者にもわかりやすいように訳文を付けるという作業の前提には、歌の言葉と現代の言葉とのあいだに決定的な差が存するという認識が無ければならないが、それは近世期の諸注釈にはほぼ認められない発想であった。〉
 意外な感じがする。訳文無しで分かるのが普通という認識だったということか。どうやって?と思うのだが。宣長は例外的なことをしたということだろうか。ここら辺をもっと知りたい。

⑥「佐々木良「令和言葉奈良弁で訳した万葉集」」
スケザネ〈元歌と佐々木さんの訳歌とのギャップの絶妙さは、「歌とは何か」、「歌の感動とは何か」という根源的な部分に根差していると思う。(…)発想の思い切りは、尺に収めたり、言葉の遊びを活かそうとしたりするような、外国語映画の字幕に近いかもしれない。〉
佐々木〈それはすごく意識しました。映画の字幕は一秒で読める文字数が決まっています。(…)実はこの本も、一句を何秒で読めるか、ストップウォッチで測りながら訳を作ったんです。〉
 ここ、すごく面白かった。まさに発想の転換だと思う。一首をどんなリズムで読むかという、現代短歌の話にも繋がる。その他、改行の場所、半角スペースにも気を配ったという話や、漫画のコマの中の文字数を参考にしたという話なども興味を引かれた。

⑦「続ここまでやるか小池光研究」
ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう 小池光『廃駅』
 内山晶太〈事実は見せに行ったか行ってないかどちらかしかない。そして事実には主体の判断が介在する余地がない。一方、ここでの「たであらう」は推測であり、そこには主体が混入している。〉
 事実+主観、ということで言えば、文語体も口語体も変わりはない、ということを思った。日本語全体に関する現象なのだろう。

⑧「堂園昌彦による歌集解説②」『草の庭』
そこに出てゐるごはんをたべよといふこゑすゆふべの闇のふかき奥より 小池光
 〈小池は文語定型という異化された〈現代語〉を活用することで、現代社会の空疎さをあぶり出すとともに、過去日本への郷愁をヴァーチャルに構築する。〉
 文語定型=異化された〈現代語〉、という認識。賛同する。

⑨安田登「能楽師の勝手がたり」
〈結句の「逢ふこともがな(逢えたらいいなぁ)」の「もがな」です。この「もがな」は現代ても「いわずもがな」という語に残っている、「~できればいいなぁ」、「~があればいいなぁ」という願望をあらわす終助詞です。古代には「もがも」でしたが、平安時代くらいに「もがな」に変わりました。〉
 万葉集の「天の火もがも」とか「常にもがもな」とかが、現代の「いわずもがな」に繋がっているということか。結構びっくりする。「いわずもがな」を意味分からずに使ってた、ということが分かった。

2023.9.14.~18. Twitterより編集再掲

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