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『短歌往来』2021年2月号

①田中教子「前登志夫合評」〈山には、あの世とこの世の通路があり、日常的にいろいろなものが往来していると(前登志夫は)いう。…言葉(歌)は山河との交霊の密儀であり、大いなる命のみなもとへの祈り…〉自然の中の霊的なもの、交流としての歌。自然詠、と軽く分類できない。

こってりところもを付けて揚げられるもみじ葉たちの「え?」を思いたり 武富純一 笑った~。短編アニメを見ているみたい。まさか・・・と思っているうちに揚げ物にされてしまうもみじたち。写真付きの連作なのでもみじの天ぷらの写真も見られる。結構かわいいんですけど。

③勝又浩「文体のこと」〈日本語の「私」は常に相手との関係性のなかで選ばれる。日本語人は常に自分を相対的に認識し、表出して生きている。言い換えると、日本語は基本的に「役割語」つまり立場語なのだ。〉この役割語の話、面白い。この後「私」が多様だから文体も多様、と続く。

④大西久美子「再考したい宮沢賢治の短歌-方言とオノマトペの迫力」
「何(なん)の用(よ)だ」
「酒(さげ)の伝票。」
「誰(だれ)だ。名は。」
「高橋茂吉(ぎづ)。」
「よし。少(ぴや)こ、待で。」宮沢賢治


 〈賢治の短歌が発する、瞬発力、臨場感、高揚感が存分に発揮されている。方言の話し言葉だけで成立しているところも珍しいし、句読点、カギ括弧、五行の分かち書きが活きている。〉この短歌にはびっくり。大正五年、賢治満二十歳の作ということだ。大西の言う通り、方言の話し言葉、句読点、カギ括弧使いなど、約百年後の今から見ても斬新だ。

 論はこの後、賢治短歌の方言とオノマトペに言及している。現代ではなく、日本語近代化が進行中の大正時代に、方言を駆使して短歌を作った宮沢賢治。その先進性に気づかされた論。

2021.2.17.~18.Twitterより編集再掲