見出し画像

河野裕子『はやりを』 3

憎しみに火脹れてゐる夜ぞ迷ひ来し蟻のひとつもわれに触るるな 二句を「ひぶくれているよぞ」と九音で読んだ。もし蟻にでも触れられたら、火脹れた皮膚が破裂してしまうような感覚。蟻も感電でもしたようになるだろう。全身がひりつくような憎しみと苦しみ。

人は人を皮膚一枚に隔ちつつ危ふき人語あやつるものか 心が繋がっているように思えても身体は皮膚で隔てられている。そして人語を操ることによってより隔絶が深まる。わずかに皮膚一枚と言葉のみ。しかしその隔絶は埋めがたい。決して相手とは融合出来ないのだ。

わが髪を擦るばかりにぞのぼる月一夜をかけて炎えつきてみよ 地上近くある月。それを初句二句のように表現する。月が心理的にも近い。夕方昇っていく月に、朝までに炎えつきよ、と呼びかける。自分の心情を投影することによって、静かな月も激しく炎えるのだ。

沸点の限界を疾(と)うに知れる子ら怒声かいくぐり又馴寄り来る 湯が沸騰するように怒る主体。しかしどこまでも怒りが高まる訳でもいつまでも続く訳でもない。お母さんの機嫌はすぐ直る…子らは馴れ馴れしく寄って来る。それが母にとって救いでもあるのだ。
 ここまで読んできたところ、割り合い的に子供の歌は少ない。巻頭からの「緑衣赤髪」「杉戸」「襞」「垂線」「沸点」の5つの連作37首の内、子という語の入っているのはこの歌を含めて2首だ。河野裕子を「母」というキーワードだけに収めず、歌集で読んでいきたい。

触れざればただの男よ夕日(ひ)に透きていらいらひりひりと蟬が鳴くなり 夫を詠んだ歌。触れれば特別な人、触れなければ自分とは関わりの無い人のよう。その隔絶感が苦しくて、蟬の声も「いらいらひりひり」という、音とも皮膚感覚ともつかぬものとして響く。

はがねなす論理の閾よりせり出して貝肉のやうに傷つきてみよ 鋼のような論理で言い負かされてしまった主体。それでも相手の論理そのものを疑って、その閾より出て来い、と挑発する。論理という殻に守られた、貝肉のような、傷つきやすい生身で勝負しろ、と。

2023.4.5. Twitterより編集再掲

この記事が参加している募集

#今日の短歌

39,684件