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『現代短歌』2022年5月号

動詞とはいづれも性的意味を持つ たしか吉本隆明の言 今野寿美 上句の内容に惹きつけられる。言葉をテーマにした歌はよくあるが、どんな言葉を扱っているかが大きい。動詞というものの本質を考えさせられた。 

②天草季紅「バチラー八重子論」〈…八重子の短歌を日本の和歌に連なるものとして歓迎していることである。しかし、八重子はただ、日本語に不得手な自分が、アイヌ語のわからなくなったアイヌの若者たちに、思いを伝えやすい詩型として短歌を選んだのである。それは和人の学者たちには理解されなかった。そして、まさに短歌ゆえに、その歌集は皇国の欲望をまとって世に出ることを許された歌集になったのである。〉
 本号の特集は「アイヌと短歌」。骨太な特集だ。アイヌの人々にとっての短歌とは何なのかを考察することが短歌総合誌で特集する意義だろう。
 八重子の意図に反して、どれだけ同化政策が進んでいるか、皇国の威信を確認する手がかりにされてしまった。新村出・佐佐木信綱・金田一京助という同時代のトップの碩学達もやはり時代の思想から全く出られていなかったのだということが分かる。八重子の意図を歪めている自覚はなかったのだろう。

③天草季紅〈アイヌ民族に対する金田一の、「亡び」の言説と収奪の論理は、かれのなかでこのように歪んだ形で育っていた。八重子が願うはずのない、恐ろしい読み替えである。〉
 啄木関係の資料では、啄木に振り回されるいい人の役回りの金田一京助だが、専門分野では違う顔を見せる。
 この特集では、金田一らの序文も含めて八重子の歌集が再録されており、読者は自分の目で確かめることができる。公平なあり方だと思った。

図書館の北方資料のグラビアに伏し目に写る祖母と出合えり 照井君子 祖母はアイヌの衣装を身にまとっているのだろう。しかしここで祖母は「ひと」ではなく「資料」として扱われているのだ。図書館で資料を見ている時に肉親に出合う違和感、そして哀しみ。胸に迫る歌。

⑤松村正直「異民族への興味関心と蔑視差別」〈短歌という日本語表現が〈立派な〉日本人であることの証明になっているのである。このことは、アイヌと短歌の関わりを考えた上で避けては通れない問題と言っていい。短歌もまた、広い意味での同化政策の一翼を担うものであった。〉
 これは大日本帝国のあちこちで起こっていたことだろう。(戦後ヒューマニストということで再評価された渡辺直己も、この時期支配者の視点でものを書いている。)短歌も、というより、短歌だからこそ同化政策推進力のかなりの部分を担ったのだろう。明治以降の短歌を考える上で、欠かせない観点だ。

⑥松村正直〈こうした海外を訪れた経験が、寛に自己相対化の視点をもたらしたと言っていいだらう。アイヌに対する見方にもそれがよく表れていると思う。〉
 与謝野寛(鉄幹)は同時代の日本人の中でも飛び抜けて海外経験が多い人物だ。その経験が今回描かれたヒューマニスト的視点に繋がっているという事は今まであまり指摘されてこなかったのではないか。朝鮮へ行った時はキナ臭いし、ヨーロッパへ行った時は物見遊山的で箔付けのようと思っていたが、今回、時の碩学達の文よりよほど人間的な印象を受けた。寛の知らなかった面を見た。

⑦楠誓英「短歌時評」〈これらの歌は恐ろしい。なぜなら「学校」という一つの「舞台」の中で〈ちばさと〉という作者千葉聡とは別の教師と〈生徒〉とが延々と青春ドラマを繰り広げ、それを見せられているような恐怖を感じるからである。その舞台には、千葉が言うように、「悪人は一人もいない」のである。〉
 楠のいう「恐怖」を私も感じる。悪人は一人もいないというなら、その時同時に善人も一人もいないのではないか。人の心は割り合いの違いこそあれみなグレーだ。その暗い部分を見ることも見せることもしない「舞台」はやはり恐ろしい。学校に限ったことではない。

⑧楠誓英「時評」〈学校行事は次々と中止、もしくは延期となり、「学校」が青春の場であったのは、もはや「虚構」の世界のことである。いや、元々「虚構」であったのだ。〉   
 ここまで言ってしまうと極論過ぎるように思う。「虚構」ではない「青春」も実在した、する、と信じたい。
 とは思うが今回楠ははっきり物を言っていて、とてもよかったと思う。賛成するにしろ、反対するにしろ、まず最初の論点が明確でなかったらできないことだからだ。時評にとって大切なことだと思う。

⑨小野田光「書評」〈短歌から作者が省みる過去を感じることは、言い換えれば歌や歌集の余白からも歌人の生き様を感じることである。〉
 気鋭の論者に、川本千栄『森へ行った日』の書評を書いていただきました。深く分析していただきありがとうございます!

2022.6.2.Twitterより編集再掲