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ナカムラクニオ『洋画家の美術史』(光文社新書)

 幕末~明治から始まった日本の近代洋画。著者はそれをオムライスのような洋食に喩える。明治、大正期に西洋から日本に輸入され、独自に進化した「和製洋画」を、16人の洋画家を語ることによって、昭和半ばまでの美術史として描き出す。取り上げられる画家は高橋由一、黒田清輝、藤島武二、萬鉄五郎、佐伯祐三、藤田嗣治、岸田劉生、坂本繁二郎、梅原龍三郎、長谷川利行、東郷青児、熊谷守一、曽宮一念、鳥海青児、須田剋太、三岸節子。各画家の項の最後に、誰からの影響を受けたかが「成分表」として円グラフになっており、分かりやすい。ただし一人一人の記述は物足りないし、もっと取り上げてほしい画家もいる。続編が待たれる。

〈面白いことに、この鮭の絵には、サインがない。制作年の記載もない。むしろ個性をなくして、工芸品的リアリズム絵画を追求したので、サインをする必要もなかったということだろう。(高橋由一)〉工芸品的リアリズム、芸術家というより職人の仕事に近かったのだろう。短歌なら詠み人知らずでもよい歌ということか。

〈西洋においては静物画は、長い間、宗教上のアレゴリー(寓話)として描かれてきた。(…)しかし、由一の鮭には、そういった教訓めいた押し付けがましさがない。(…)由一の「鮭」には、即物的だからこそ心を打つ潔さ、シンプルさがあるのだ。それは、ある種のアニミズムと言ってもいいかもしれない。(同)〉西洋の絵を見るにはある程度の知識が無ければいけない。勉強する必要があるのだ。そういった西洋美術史から切り離された和製洋画の持つ力をこの文は伝えてくれる。

〈当時、近代的な印刷技術が確立され、普及しはじめていた雑誌のデザインの依頼が舞い込んできたのだ。しかも、『明星』をデザインしていた日本画家の一條成美(いちじょうせいび)が突然亡くなり、後を継ぐことになった。そして約6年間もの間、表紙や挿絵のデザインを担当し、評価を高めていく。それがきっかけで与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の装丁も手掛けた。(…)形も細長い短冊型の手のひらサイズ。実に美しい本だ。(…)藤島武二の作品は、浮世絵、アール・ヌーヴォー、明治ロマン主義という世界を一周ぐるりと廻った和洋折衷の美なのだ。(藤島武二)〉副題は「明治生まれの耽美派グラフィックデザイナー」。明治生まれの洋画とデザイン画が、近代短歌と手に手を取って走っている姿がよく分かる。短歌も最先端だったが、イラストや装丁も最先端だったのだ。

〈「西洋人には西洋人で、日本人には日本人の洋画が生まれるはずだ」。さらに萬は「個性を忘れた時に個性が最も強いと考えます。(…)」と言っている。(萬鉄五郎)〉個性を出そうとする時では無く、忘れた時。無我になった時ということだろうか。

〈特に「文字」を絵画の画面に大胆に取り込んだ画家として興味深い。実は、彼は寺の息子だから「文字を写すこと」にこだわったのではないだろうかとも思える。(佐伯祐三)〉佐伯祐三は好きな画家だが、文字という観点で見たことは無かった。しかもそれがお寺の子だから、という驚きの目の付け所。

〈子供向けでありながら、深い「生と死」がテーマとなっており、細かな描写がとてもユーモラスだ。画面の構成、画面を縁取りするように描く絵のスタイルは、イギリスの詩人で画家ウィリアム・ブレイクからの影響が大きい。大正時代には柳宗悦の本格的なウィリアム・ブレイク研究により、言葉(詩)と絵画(版画)を融合させた大胆な作風は、劉生の画風にも大きな影響を与えることとなった。「自由な幻視者」であったブレイクの精神は、「実によく自己を生かした人」として劉生たちに受け継がれ、愛された。(岸田劉生)〉大好きなブレイクとどちらかというと好きでない岸田劉生の間の強い結びつき。挙げられた挿絵はまさにブレイク。「劉生の首狩り」と呼ばれる、友人をモデルに次々に人物画を描いたエピソードも面白い。

〈坂本は写実を捨てないまま、幽玄な世界を超能力者のようにキャンバスに念写した。どこか霊感する漂う。(…)物の形を単純化し、色彩を重ねることで、写実を超えた想像力の世界を描くことに挑戦したのだ。(坂本繁二郎(はんじろう)〉写実と幽玄。短歌にも通じることだろう。ただ目に見える形や色彩があることが言語芸術とは全く異なる。

〈梅原の人生を改めて振り返ってみると、呉服屋の無鉄砲なおぼっちゃまっぷりが、美しいものを貪欲に吸収し、日本流の洋画を確立したことがよくわかる。洋画とは、つまりグローバリゼーションなのだ。(梅原龍三郎)〉元々、梅原の絵は暑苦しいと感じていて好きではなかったが、この項を読んで梅原の絵も悪くないと思った。実際に著者蔵の図版に挙がっている絵はどれもかなり魅力的だ。

〈短歌については「確信ができないのです確信することはおそろしい固執だからです」といったような口語体の自由律短歌を書いていた。(長谷川利行)〉筆名長谷川木葦(もくい)。どんなグループに属して自由律短歌を詠んでいたのだろう。関東大震災後に『火岸』という歌誌を刊行していたようだ。

〈フランス系の画家は補色を使い、美しい色彩の響きを強調する。しかし、ドイツ系の画家はアウトラインに黒を多用し、画面を濁すことで、暗さを強調して、心にかかるモヤを表現するのだ。利行もドイツ系だ。(同)〉著者は利行と多くの画家との共通点を指摘しているが、特にシーレとの相似は面白かった。生きた期間もほぼ重なるのだ。

〈1920年代のパリの社交界では、ローランサンに肖像画を注文することが上流婦人の間で流行になるほどの大成功ぶりだった。(東郷青児)〉そんなローランサンから学んだ青児。

〈北園克衛(かつえ)は、青児について以下のように非常に興味深い言葉を残している。「氏の色彩は寒い。これがまた装飾美術的甘さを造る。甘さは欠点ではない。」(同)〉色彩が寒いという批評語に驚く。

〈芸術家は時間が経てば経つほど、純粋に作品で評価されていく。(同)〉東郷青児の女性関係が過激と言えるほど乱れたものであり、当時は三面記事的興味を掻き立てただろうことからの記述である。そうした人間臭い側面は時間が洗い流すのだ。これはある意味恐ろしいことだ。

〈守一の芸術家としての苦悩の始まりは写実だったが、日本画によって救われた。日本の中に自分の様式を見つけたのだ。それは、平面的な画面と極端なまでに単純化されたフォルム。そして、それを囲む太い輪郭線だった。抽象でありながら、具象であるという技法は、日本画や仏教絵画の手法でもある。(熊谷守一)〉抽象と具象、写実と単純化など、短歌を作ったり評したるする時にも関わってくる概念だ。

〈絵画は大きく分けると「窓派」と「鏡派」の2種類ある。窓のように世界を切り取ったものと、鏡のように心を写し取ったものだ。一念の絵は、もちろん鏡だ。心の中にふわふわと浮かぶ得体の知れない美を、目を使わないで描いた。(曽宮一念)〉ここにも抽象と具象の問題が触れられている。目を使わないで絵を描くという逆説。

〈いつだって「美しい絵画は、機能的である」と、大切なことを教えてくれている気がする。(三岸節子)〉この一言はとても刺激的。どんな絵画がどう機能的か思わず考えてしまう。

〈絵画といえば西洋美術をイメージする人が多いかもしれないが、和製洋画には日本人ならではの感性でしか描けない、湿気を含んだ魔力があると思う。(…)日本文化は、世界の美しい断片を組み合わせたコラージュによって成り立っている。(おわりに)〉この後、最後も食べ物の喩えで〆ている。和製であっても構わない。それはむしろもう個性なのだということだろう。

光文社新書 2021.1. 1120円+税  装幀アラン・チャン

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