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『うた新聞』2024年2月号

①大辻隆弘「自己志向的な「の」」
『まひる野』1月号の北山あさひの時評から終助詞の「の」について考察した文。北山が「の」に「困難に立ち向かおうとする女性の意思」を読み取ることに同意し、なぜ「の」にそうした働きがあるかは、自己志向的だからと分析する。
 〈三枝令子は「話し言葉における文末『の』の機能」のなかで、文末の「の」の起源を、以下のような格助詞「の」の準体言用法のなかに見出している。〉
〈文末の「の」は、このような準体言の「の」の進化形である。〉
 体言化、か。だから状況や心情が明確になる、という主張にはうなずく。確かに「のではない」「のか」「のだ」「のよ」などの「の」は体言化と言われるとその通りと思う。文法書は「のだ」の「だ」が落ちたのが「の」というが、私としては「のよ」「のだ」と「の」は微妙に違う気がする。実際に使う者として。

②「自己志向的な「の」」
 大辻のあげている三枝令子の著書と、北山のあげている『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』(平野卿子・河出新書)も機会があったら読んでみたい。どちらも面白そうだ。

③松澤俊二「短歌(ほぼ)一〇〇年前」
〈矢沢孝子『湯気のかく絵』(一九二三)を見たときに、これは百年前の「推し活」ではないかと思われた。(…)内容は矢沢が推す宝塚歌劇への愛で、なかなか良い具合に滾っていた。〉
 また面白い視点を…
 松澤はこうした宝塚への愛に満ちた歌集が、歌劇団の出版部から刊行され、実業家小林一三の商戦略の一環であったとの見方を出している。さすがだと思う。  
 ただ、単に歌が推し活に使われている例は江戸時代からあったと思う。狂歌だけど。
我等代々団十郎びいきにて生国は花の江戸のまん中 頭光 
 『キマイラ文語』の狂歌の章であげた歌。歌舞伎役者は今のアイドルかそれ以上の存在。推し活の歌は探せばもっとあるだろうな。

2024.3.7. Twitterより編集再掲

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