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角川『短歌』2023年2月号

自販機のおしるこのようどこにでもいそうでそんなことはない君 伊波真人 面白い比喩だ。お汁粉は季節が限られる。一瞬、どこにでもありそうと思ったものの、よく考えると実はレアめ。「で」を境に認識がなだらかに切り替わる。缶で飲むお汁粉の違和感のある甘さも君に重なる。

②特集「短歌のオリジナリティ」栗木京子「継承と独創性」
〈文語の助動詞が過去、現在、未来などの時間を内包しているのに対して、口語では時制表現が単一になりがちである。また口語では、動詞が終止形で切れているのか、連体形で繋がっているのか判別しにくいこともある。そのため一字空けで時間や空間に間隔を生じさせ、接続の有無を明確にしたくなるのであろう。そこは、よくわかる。〉
 口語の時制表現が単一になりがち、というのはよく言われることだ。助動詞の数だけ比べるとそうだろう。我々現代語話者はそれに替わるものを使っているはずなのだ。一字空けもその一つかも知れない。しかし栗木はこの後、それが必要不可欠なのかどうかを自問するよう促している。そこまで考えず、何となくの一字空けはついやってしまいがち。最近、一字空けについての文章をよく見るので、歌を筆記する時考えてしまう。

水含み重いドレスは脱ぎ捨てて海まで泳ぎゆけオフィーリア 松野志保 オフィーリアのイメージとしてはミレイの絵が思い浮かぶ。元々重いドレスは水を含んでさらに重くなり、あのように水に浮いていることは出来ないのではないか。画家は恋人を浴槽に浮かべてスケッチしたらしい。あくまで男目線で見たオフィーリア像なのだ。松野の歌はそんなオフィーリアにドレスを脱ぎ捨てて泳げ、と呼びかける。社会が着せたドレスを脱げば、するりと軽い身体だろう。海まで、というところがシェイクスピアにもミレイにも思い浮かばなかった到達点だ。

けれど手はあたたかいから触れたなら崩れる氷魚も定型の詩も 松野志保 温かい手で触れると形が崩れてしまうもの、透き通る氷魚、定型の詩。どちらも形があればこそのものなのだが、人の血が通った手で触れることで、形を失っていくことにも美を感じているのだろう。

⑤鯨井加菜子「加藤治郎歌集『海辺のローラーコースター』評」
〈川本千栄の評論集『キマイラ文語』に「加藤治郎のオノマトペ」という項目があり、興味深く読んだ。(…)この視点で本書を繙いてみる。〉
 歌集の読み解きに、自分の論が使われている。何という喜びか!
〈長音で定型をゴムのように柔らかくし、促音で言葉をスタッカートのように弾ませて滞空時間を延ばす。そんな効果を、加藤は意識的に狙っている。〉
 鯨井は、オノマトペから入って、定型という本質論に切り込んでいる。深い評だと思った。

⑥加藤孝男「川本千栄著『キマイラ文語』評」
〈短歌が和歌と呼ばれていた江戸期には、口語は、「狂歌」というジャンルが担っていたのだが、明治に入ると狂歌が衰退し、和歌が担わねばならなくなった。こうした近代短歌史観も正確である。〉
 近代短歌の黎明期について詳しい著者に、近代短歌史観を正確と言ってもらえて本当にうれしい。口語短歌の始まりの時期について述べた部分への評言だ。また、ニューウェーブの位置付け再考についても、〈正確な現代短歌史観〉と評していただいた。感激に堪えない。

2023.2.14.~16.Twitterより編集再掲



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