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『塔』2023年2月号(1)

池の水全部抜いたら、苦しみを全部告げたら、罅割れ現はる 栗木京子 池の水を抜くように自分の抱えている苦しみを全部相手に告げる。抱えている苦しさから逃れたくて。しかし結局それによって現れた亀裂によって、さらに苦しむことになるのだ。

ものを言ふ前の一瞬測りたり憎まれ方の強中弱を 澤村斉美 言い難いことを言う前に一瞬、これを言ったら相手にどれくらい憎まれるか無意識に測る。この主体のように強中弱と細かく測っているかは個人差があるだろうが。それでも結局言ってしまう。一瞬の心動きなのだ。

らふそくの火を手に煽ぎ消さむとしやはらかき火のなかなか消えず 千葉優作 仏壇の蝋燭か?息を吹きかけて消すと「生臭い」、ということで手で煽いで消す。手で風をおこしても、ゆらゆら揺れて火はなかなか消えない。その様子をやはらかき、と捉えたところに惹かれる。

太陽が屈んで部屋まで来てくれる季節午前に布団を干して 詩衿 冬をとても細かく描写している。太陽の高度が低くなることを上句のように言うと、太陽がわざわざ訪ねて来てくれるような暖かい気持ちになる。「屈んで」がいい。布団がほんのり暖まることも想起される。

⑤吉川宏志「青蟬通信 リアルさと意外性」名古屋での講演を受けての文。子規顕彰短歌大会の講演とも共通点がある。今回は違うところを。〈子規が提唱した〈写実〉は、おそらくこうしたことに繋がっているのだろう。つまり、自分が想像できることを歌で表現しているだけだとしだいに歌の意外性は弱まってしまう。だが、外の世界に目を向ければ、自分が考えもしなかった驚きに満ちあふれている。それを描くことにより、自分と外界とのあいだに通路を作り出す。それが〈写実〉の意味だったのだ。後の時代には、「事実以外を歌ってはならない」といった硬直した考えが生まれてくるが、それは決して〈写実〉の本質ではなかった。〉
    事実信奉での写実と、現実の持つ意外性から生の実感に繋がる写実では、全然違う。写実、リアリティをもっと考えたいと思った。
    「青蟬通信」は以下から読めます。

今想う酒の飲めない父がなぜ洋酒戸棚をかまえていたかを 中本久美子 最近読んだ建築の本で知った。ガラス戸のサイドボードは戦後、インテリアとして流行し、中には洋酒と百科事典が入っていた、と。うちにもあった。洋酒と文学全集だったり、どこの家にもあったなあ。

虹色のコンパクトディスク傷つくかもしれない今日がまわり始める 上澄眠 そう言えば、CDの裏面は銀色。で、虹色に光っている。傷がついたら音が飛んで台無しになるCD。三句「傷つくかも」六音を少し早口で読んでみる。傷つくのが怖いから。

⑧特集 河野裕子記念シンポジウム報告「河野裕子に再び出会う」澤村斉美、小林信也、永田紅
永田〈先ほど花山さんが、河野裕子について、みんなが見放しても自分は変わってゆくんだってことをおっしゃっていて、母はとてもそんな意識や姿勢があったのだと思います。自分のその時点での実感でしか、歌を作りたくない。過去に評価された歌をまたなぞったってしようがない、ということで、自己模倣の迷宮には入らなかった。どう評価されるかわからないけれど、わからないままに、決め技で一首を決めにいったりせず、ここ褒めてもらえるだろうというポイントを作ったりもせずに歌を出してしまえるところ。(…)変わってゆける強さがあったと思います。〉
    これは河野裕子の歌を年代順に読んでいって実感する。別人の歌のように思う。評価された人ほど自己模倣に陥りやすい。「変わってゆける強さ」という言葉に感銘を受けた。

⑨「河野裕子に再び出会う」
永田〈最近、人の歌集を読んでいて、一首としてはもう文句のつけようのないうまい歌があったとしても、その人の何冊かの歌集を読んでいると、あ、またこのあたりの処理でやってるなと気づくことがけっこうあって。それはつまんないなと思ってしまうのだけど、河野裕子の場合はもう、何だ、この変わり方はっていう。〉
    ある程度コツがつかめると手癖がついてしまうんだろうな。それが結局自己模倣に繋がるし。意識して変化していくことの大切さを再認識した鼎談だった。

2023.2.26.~28.Twitterより編集再掲

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