評論を評する(前半)【再録・青磁社週刊時評第三十七回2009.3.2.】
評論を評する(前半) 川本千栄
(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
『短歌往来』3月号から画期的なコーナーが新設された。「評論月評」である。執筆者は佐藤通雅。佐藤によるとこの欄新設のいきさつはこうだ。佐藤はしばらく前から総合誌の評論を読みこんできた。力作ぞろいで読み応えがあると思うのだが、総合誌に「短歌月評」はあっても「評論月評」はないので提案したのだそうだ。
私自身も評論に対する評が無いのがずっと気になっていた。評論というのは、下調べや資料の精読から始まって完成するのに相当の時間を要するものなのだが、その反応というのは本当に少ない。書く立場から言えばこれほど寂しいことはなく、自分の書いたものは一体いいのか悪いのか、反論でもいいから見てみたいと思うものだ。
「評論月評」第一回目である3月号は2ページで6つの評論を取り上げている。「ニューウェーブの再検討をめぐって」西巻真(「短歌往来」二〇〇九年一月号)、新春座談会「短歌の明日について」(「短歌」一月号)、「パッケージされる歌」なみの亜子(「短歌」一月号)、「臨床批評―『短歌の友人』を読む―」岡部隆志(「月光」No.7)、「あえて継承しないということ」西村旦(「新彗星」No.02)、「閉塞感のゆくえ」中津昌子(「かりん」二〇〇八年十二月号)の6つである。対象となるのは総合誌・結社誌・同人誌・個人誌、取り上げられた記事は評論・時評・座談会、と柔軟に捉えられている。ただし、単行本としての評論集は別に書評欄で論じられるだろうから外す、ということである。
佐藤はまず各評論の要点をコンパクトにまとめた上で自らの感想と問題点と思われるところを述べている。その評論を読んでいない者にも焦点が伝わる、公平な書き方である。例えば岡部隆志の論に対しては〈いかにも岡部らしく、深いところに目が届いている。もっとも、これら饒舌な歌たちが作品としてどう評価されうるかの問題は、依然として残っている〉と結び、西村の論に対しては〈これが評論を読む醍醐味だ。問題は永井たちの世代が、本当に「冷静に見据え」「進んでリスクをとりにいく」ことに意識的であるかどうかだ〉と結ぶ。未読の評論に対して大いに読んでみたいという意欲を起させる文である。同時に、評論はあくまで最初に作品ありきのはずだが、時には論のための論になって作品を離れて一人歩きすることが無いとも限らない。佐藤の目配りはそうした点にまで及んでいる。
問題は6編の評論に対して2ページがいかにも窮屈だということだ。今回はこの月評欄新設のいきさつ説明などもあったので、次回から一層充実することであろう。
(続く)