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河野裕子『はやりを』 12

わが知るは君が片ぺん今君は熟瓜(ほぞち)けだるく肘つきて食ふ 自分が知っているのは君のきれぎれのかけらでしかない。どんなに愛し合い、長く暮らしても起こる、普遍的とも言える感慨。三句以下で君の家での姿を描写する。リラックスした、どこか疲れた姿を。
 「熟瓜」、特に熟という文字、「けだるく」に二人の関係が、安定して熟して、さらに互いの存在が当たり前になっている雰囲気が出ている。実際に「熟瓜」を食べていたのだろうけど、語として上手く決まっていると思う。

日月(じつげつ)の歩みは遅くしづけきを杳(はる)かな水位に睡れる死者よ 振り返れば速く過ぎたと思われる日々も、そのさなかでは歩みが遅いように感じられる。その時思われるのははるか遠くの死者。自分とは違う場所を、「水位」という言葉で捉えている。

家といふ洞(ほら)の奥処に厨あり厨の暗がりに水と火と婦(をんな)あり 河野は自分を主婦と位置付け、厨歌を多く詠い、さらに家にいる主婦とはどんな存在かをよく歌にしている。どんどん洞穴を進むように家を進めば、一番奥で水と火を司っている存在なのだ。

老いてゆく太陽光の緑金を眼を細めしゐんと蜥蜴が見上ぐ 河野には、蜥蜴の歌で憎しみを詠っているという印象があるが、この蜥蜴は眼を細めて夕陽をしんと見上げている。河野の中の原初的な感情が時折蜥蜴の姿で歌に現れるのか。この歌では自然を享受する心か。

2023.6.14. Twitterより編集再掲

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