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『短歌研究』2021年7月号(1)

①山田航「口語による「短歌リアリズムの更新」について」〈(平田オリザは)自然な日本語話法に則った口語演劇が必要だと主張した。まるで幕末の国学のような主張だ。〉山田の目の付け所は明快だ。演劇はト書き以外はセリフだから、会話体への考察は一番進んでいるのだと思う。

 2012年の「塔」の全国大会で、平田オリザの青年団の演劇と、平田オリザ・永田和宏・栗木京子・松村正直のパネル・ディスカッションがあった。その時は演劇の内容に夢中で会話体とか口語とかにアタマが回ってなかったな。

②山田航 演劇の会話での語順によるリアリティの話に続き、〈近代短歌において「リアリズム」として提示されてきたのはもっぱら、目の前にある景色の丹念な再現や、自己の置かれている社会状況についての周到な説明であった。〉前半は写実、後半は現実主義ということか。

〈端的にいえば、「何があるか(what)」のリアリティだけではなく、「どう語るか(how)」のリアリティが実現してきているというのが、「口語によるリアリズムの更新」なのだろう。〉ここでちょっと迷う。リアリティとリアリズムを、自分が正確に山田と理解を共有しているか自信が無くなってくる。

〈歌人は文語短歌と口語短歌をジャンルのように捉えがちだが、それは誤りなのだろう。〉同感。誤りだと思う。〈文体はあくまで方法にすぎず、「リアリズム短歌」というジャンルに口語化という変化が起きている。〉最近忘れられてる感のあるリアリズムに注目した特集。口語とどう絡むか興味深い。

③永井祐「自分たちの写生をあらためて産む」〈「写生」は作歌主体の概念だと思うんです。短歌を作る人から出てくる概念です。「リアリズム」は作品を分析するときの概念。〉確かに混同されていることが多い。写生は手法だろう。またリアリズムの定義付けも議論の度に毎回必要だ。

おもむろにからだ現はれて水に浮く鯉は若葉の輝きを浴む 佐藤佐太郎:永井祐〈「鯉」からはじめるとするとただの説明になるんですけど、この語順によって、主体の認識の順番を追体験するみたいな、〉よく分かる。これは文語口語共通だろう。文語でも語順によりリアリティを生む工夫がなされている。

④穂村弘〈NHKの短歌大会で孫の歌を作った作者にアナウンサーが「今日はお孫さんは?」と問いかけて(…)「孫はいません。子どももいません」となるとテレビの番組としては成立困難になりますよね。短歌のリアリズムといわれて、まず思ったのは文体云々よりもそのことでした。〉

 これはリアリズムの中のごく限られた一面ではないのかな。詠われている素材が作者のプロフィールと一致しているかどうかという問題。事実の重みが重視される歌ではここが嘘だとシラケるというのがあるが、リアリズムはそれだけに限る話ではないと思う。

 子規が初心者は写実から入るのが作りやすいと言っていたと思うがそれを踏まえているのか。だが、目の前の藤の花や松葉の露をリアリズムで描こうとするとき、作者のプロフィールは関わってこないだろう。穂村の言っている点は文語で作ってても口語で作ってても同じで、更新とは何を指すのだろう。

⑤穂村弘〈リアリズムであれ、反リアリズムであれ、単純に対立するものじゃなくて、どこかでつながっているということを、だんだん感じてくる。突き詰めると「写実」と「象徴」は一緒だとかも言われて。〉これは同感する。誰に言われたのだろう?究極の写実は象徴に転ずると思う。

⑥穂村弘〈初期の口語短歌は、演劇のセリフとか、漫画のネームとか、歌謡曲の歌詞とかとの関係性の中からでてきてたのかな。〉何回でも指摘したいが、ライトバースの時代は口語短歌の「初期」ではない。自分たちの前の時代の口語短歌をもっとリスペクトして欲しい。

〈いま見るとリアルじゃないというのは(…)その時代の空気感が全然違うということもあると思う。その頃はその「素敵さ」に向かって背伸びすることがリアルだったから。〉〈(永井祐の北溟短歌賞の次席作品で)初めて自然でかつ意識的な口語のリアリズムというものを意識したんですよね。〉

〈(宇都宮敦の)「ふつうの女のコをふつうに好きだ」は等身大のリアルの選択になりますよね。〉素敵で特別な世界を描くことにリアリティがあった時代から、等身大の世界を描くことにリアリティがある時代へと、空気感が変わったということだろうか。

⑦花山周子「石川美南の゛ファンタジー”についての考察」すごい力作の評論だ。リアリティについて相当深く突っ込んで書いていると思った。子規の「神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて」という引用は、現代短歌のリアリティに対してかなり具体的な解答になっていると思う。

 「生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の謂にては無之候。」〈子規のいう「写実」は「リアリティー」と言い換えても差し支えないように思う。(…)子規は「写実」を実体験に基づくべきものとは考えていなかった。それはあくまでも作品中におけるリアリティ―として標榜されていたのである。〉

 さらに花山は内山晶太の時評を引いて、リアリティについて確認する。それを基に、しかも、それと対峙するように石川美南のファンタジーを考察する。現代短歌のある断面を見せてくれる評論だ。多くの人に読んで欲しいと思った。

2021.8.9.~12.Twitterより編集再掲