原初への旅(後半)【再録・青磁社週刊時評第十回2008.8.18.】

原初への旅(後半)           川本千栄

 よく「風土」という言葉で短歌における一つのカテゴリーが表されるが、小黒の描く世界は「風土」という語で表現されるものとはやや異なるように思える。「風土」という観念に付随しがちな「郷里意識」や「対東京感」というものが小黒の歌からは感じられないのだ。郷里ということに関して言えば、小黒は熊野の生まれではなく(和歌山市だから遠いわけではないのだが)、「現地に足繁く通」い、「現地の人の暮らしに飛び込」むことによって歌を得ている。また、古事記の昔や、果ては縄文時代まで体感して詠う作者に、「東京」という近代的な価値観は無縁だ。「ふるさと対東京」という小さな図式には収まりきらないのである。小黒は熊野を人間の根源的な故郷として捉えようとしているのではないか。
  執念を蝮に見たり捕へられ空瓶(びん)に弱るも七ひき子生(な)す  
  ああ、なんといふありがたき日輪やカマキリは鎌たててさみどり 
  餅投げよ山祝ひせよと祠より蟇はあらはるリュックおろさな
  龍神のお渡りと見ゆ 吹きだまる霧に角ある風伝峠
    
 歌集には動植物も頻出する。例えば、ビンの中で子を産むマムシや作者と共に太陽を仰ぐカマキリなど。しかしこれらの歌は、作者が虫や獣と同じ目線に降りて歌を作っているというより、鳥獣虫魚と人間、さらに植物が一体となって混沌とした世界に同居しているような印象を与える。神もそんな混沌の一部である。祠より現れる蟇蛙、峠を渡る霧、そんな中に作者は神の姿を見るのである。
 歌集後半では、家族の死や、師である塚本邦雄の死、北海道旅行詠、など熊野にこだわらない様々な歌が見られる。第二歌集『猿女』も熊野をテーマにした歌集であったが、その視覚的にも聴覚的にもある種の美学が感じられる歌から、『雨たたす村落』では自分の身の回りの出来事に素直に身を任せた歌へと歌柄も変化してきたように思う。師の死を越えて、小黒自身の内的必然のある主題に、より素手に近い形で肉迫しつつあるのではないだろうか。
 『雨たたす村落』『熊野の森だより』二冊合わせて読むことでさらに世界が広がる。そこには貴種流離譚から環境問題まで広範囲な論点が歌人の目で掬い取られている。『熊野の森だより』最後の秋道智彌(総合地球環境学研究所副所長)との対談は特に面白い。そこに出てくる猿醤(さるびしお)、―猿の内臓に塩をして味噌漬けにしたもの―のように小黒の歌は腹にドスンと来る。コンビニのスナック菓子のような歌集が多い中、現歌壇に一つの方向性を示唆しているとも言えるだろう。亡き前登志夫山中智恵子のように、自然を通して歌の原初の姿につながろうとする姿勢を、小黒の歌から感じるのである。

了(第十回2008年8月18日分)

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