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『歌壇』2024年1月号

①三枝昻之「新春巻頭言」
〈佐佐木信綱は近代以降の短歌百年は〈自我の詩〉や〈写生〉という自己表現の尺度だけでは間に合わない、と説いている。〉
 三枝は最近よくこれを言っている。信綱の晴の歌、オフィシャルな歌が、個人の褻の歌の対極にある、とする。
〈梵鐘に刻み込まれた佐佐木幸綱の歌は〈愛でる歌、言祝ぎの歌、晴の歌〉であり、前衛短歌は占領期の第二芸術論克服を意識した〈思想詠〉と特徴づけることができる。そしてそれは折々の自身の思いを述べる褻の歌では叶うことのできない世界である。〉
 近代以降の短歌は、褻の歌に偏っている印象がある。晴の歌はむしろ、古典和歌の世界的な? 晴の歌、褻の歌という対比だけではなく、思想詠も入ってくると、新しい腑分けという印象を受けた。

白壁にパキラの影があらわれるスチールラックを分解すれば 小谷奈央 パキラ→ラック→白壁の順で並んでいたが、ラックを分解すると、それまでラックに遮られていたパキラの影が白壁に映った。小さな気づきの瞬間の心の揺れが、感情語無しで伝わってくる。

ああ、あつた。削るところが、まだ  削る私を冬の木々が見てゐる 澤村斉美 削っているのは、何か余剰なものであることしか分からない。考え方か、それを表した文章か。ストイックに自分の余剰を削る。その精神の在り方が少し苦しい。三句二字空けの句割れが斬新だ。

ぬひぐるみの話すことなら「わかつた」と小学二年の子は聞き入れつ 澤村斉美 親の言うことは聞かないが、親がしゃべっている(とバレバレの)ぬいぐるみの言うことは聞く。私も親の側の経験があるが、あれは何なんだろう。案外、心理学的に名前があるのかも。

帰ったら家族を殴るコメディアン 春の蟹のように笑い合いたい 竹中優子 笑いを取るために己を曲げているお笑い芸人が、帰宅したら些細なことでキレて家族を殴る。そのソトづらと本当の顔のギャップ。人間の嫌な面をストレートに描く。下句は笑うと言いながら不気味。

⑥「協会賞歌集を読み返す 河野裕子『ひるがほ』」
遠藤由季〈彼女は家族の歌や子供の歌で語られることが多いのですが、それだけではなくて歌人として彼女がどういったものをテーマとして詠もうとしていたかがとても大切だと思いますし、そういうものを私たちは感じ取って語り継いでいかなければならないと思いますので、今回はなるべく子供や家族以外の歌についてお話しました。〉
 これはとても大切な視点だし、評する際の姿勢だと思う。一度定着したその歌人のキーワード的なものを上書きする形で読むより、新たなポイントを探す。
 それに応えられる歌集が、充実した歌集と言えるのではないだろうか。

⑦「未来」名古屋大会「岡井隆と平成短歌/岡井短歌を読む」
天道なお〈大井学は岡井の朗読現場に参加し、朗読が岡井の歌の韻律に影響を与えたことを語った。〉
 これ、興味深い。もっと詳しく聞きたいものだ。
〈朗読を機に岡井の定型意識が緩やかになり、詩や散文などジャンルを越えさらに作風を進化させていったことが語られ、表現に挑んだ姿が浮き彫りとなった。〉
 確かに平成の一時期、朗読が非常に盛んだったことがあった。今、ちょっと抜けている論点かも知れない。現在の目で再考すれば、気づきも多いのではないかと思った。

⑧書評 濱田美枝子『女人短歌』 
川本千栄〈資料を精査した上で通説に疑義を呈する姿勢には、まさに新しい短歌史を描こうという著者の意志を感じる。〉
 短歌史に新たな1ページを加える一冊と思います。ぜひお読み下さい。

2024.1.25.  27. Twitterより編集再掲



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