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『塔』2024年4月号創刊70周年記念号(1)

①特集:座談会「百葉集を読む 2019-2023」)
「死にたい」とツイートしてから消した人がヤギの画像にいいねを付ける 宮本背水(19.9)
〈大松逹知:(…)もちろん、物理的に本当に死にたいんだ、と真に受けることは少ないでしょう。(…)そんな「死にたい」をその人が軽く言い、さらに軽く消してしまったことに驚きがあるのでしょう。  
 それと「ヤギの画像にいいねを付ける」が生死の問題とはちぐはぐな感じで絶妙です。(…)〉  
 『塔』の毎月20首選される「百葉集」を読む座談会。この歌は「時事詠」という区分で挙げられている。
 この後、議論は、他人の生・他人の時間に関わりを持つこととSNSの関係を論じていてとても興味深く読んだ。

②「百葉集を読む」
〈岡部史:特に口語の歌に対して評者がすごく踏み込んで読んでいて、歌よりも批評のほうがはるかに面白いという例、結構ありますよ。批評ってどこまでやるべきなのか、鑑賞をどこまで踏み込んで展開すべきなのかといのはとても難しいところですけどね。だけど、やってると気持ちよくなっちゃうのね。物語作れるし、そこから自分の世界へ引き込んで読む楽しさというのは絶対あるんですよね。それを自制できないときがある。〉
 どこまで踏み込むべきか、本当にそう思う。気持ちよくなっちゃう、というのには自戒の意味も込めて確認。

③特集「没後四十年 高安国世再発見」
北奥宗佑「非日常の輪郭」
〈ここで注目されるのは『北極飛行』の歌の多くが、日常ではなく非日常を扱っていることである。外遊中の歌であるから当然のようだが、海外生活にも日常は存在するわけで、特に高安のそれまでの歌集は自らの日々の生活のごく近辺に歌の題材を見出す歌が多かった。(…)  これは、前述のようなタイミングと期間の制限のために、高安がそのドイツ生活において、「日常」を獲得するに至らなかったからではないだろうか。〉
 『北極飛行』を中心に高安の海外留学とその歌を検証した論。
 もちろん、高安国世論としても優れた考察だと思うのだが、私にとっては、「日常」を獲得するに至らなかった、という部分がとても心に残った。獲得するものとしての日常、という視点は、読者である私自身の生活を再考するきっかけになると思えたからだ。

④「高安国世再発見」
髙野岬「驚きの人」
〈初期の自然詠に、「見ゆ」「聞こゆ」「思ふ」などの語の挿入により作者の姿が意識される歌が多いのだ。〉
〈第三歌集では自然詠はぐっと色彩を増したと感じる。これは「見ゆ型自然詠」が減ったことも関係しているだろう〉
〈『新樹』は無論、自然詠に大きな変化があった歌集だ。自然詠は(…)「驚き」に溢れている〉
〈『新樹』以降、都会嫌悪詠はそれほど目立たず(…)〉
 「見ゆ型自然詠」「都会嫌悪詠」など分かりやすい分類で高安の自然詠の変化を通観している。「見おろしの人」「水平感」の語にも納得。

⑤座談会「私たちの現在地」
田宮智美〈私は家族のことをけっこうあけすけに表現してしまうので(…)それがアウティングになるのではと気になっています。〉
田村穂隆〈自分も本名でやっていて、歌集の中で父親との関係性みたいなのが意図せず出てしまっているんですよね。(…)自分としては絶対に歌集に載せないといけない歌だったんです。〉
 この辺りはとても気になるところだ。他人に与える影響もありながらも、詠わずにはいられない、絶対に歌集に載せないといけない、という切羽詰まった思い。それを避けて詠んだら歌を詠む意味が無いと思うこともある。

2024.5.16.~18. Twitterより編集再掲


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