幼少期の満たされなさについて(写ルンです一個分の写真ぜんぶとエッセイ)
人生に対するやる気がなくて、ずっと家の中にいる。
それは「死にたい」と虚空に願うようなものではなく、まぁ別に生きててもいいけど「何か一発かましてやろうぜ」とは思えない、そんな状態である。ガス欠というか、もしくはMP切れというか。
働いていた居酒屋が閉店してもうすぐ二ヶ月。ちょこちょこ単発の派遣業に就いてはいるが、それも本当に最低限だけで、社会的な活動はほぼしていない。
現実から逃げるように、先月末から今月にかけてずっとゲームをしていた。『ファイアーエムブレム無双風花雪月』という作品。ファンタジーと絆と戦争、そんな作品。
ファンタジー系の創作物は、元ネタを辿ってみるとさらにおもしろくなる。キャラクター名や武器名の由来から、世界各地の神話を(断片的にではあるが)知ることができる。
たとえば、ゲームの中に王と騎士がいる。この二人は幼馴染で、口の悪い騎士はとある事件をきっかけに王を「猪」と呼び、ことあるごとに辛く当たっていた。だが、その騎士が持つ武器は「モラルタの剣」。この剣の由来は、ケルト神話に出てくる「猪を殺せない英雄が持つ名剣モラルタ」である。
ゲームはまぁまぁやり込んで一段落ついたので、今日はNintendo Switchを脇におき、ずっと積みっぱなしだった本を読んだ。
手をつけたのは『死の医学』(駒ヶ嶺朋子)。書かれているのは、医学の分野から臨死体験や体外離脱(いわゆる幽体離脱)などの不思議な体験を読み解き、脳が死にどう対処しているのかを見る、といった内容である。
だが意外にも、芸術の領域に言及される部分がかなりあって興味深い。脳の経路のある一部分を意図的にブロックするか、またはその経路がもともと欠落していたか、そんな形で生まれたのがピカソの特徴的な肖像画だったのではないか、とか。
虐待、ネグレクト、いじめ、機能不全家族との生活などを「逆境的小児期体験」と呼ぶという。
――集落の外れ、活火山のふもとに、一軒の家があった。そこには、たったひとり、まだ10歳にも満たない女の子が住んでいる。その女の子は台所に立ち、シンク下の扉を開けておもむろに包丁を取り出すと、「これをこの胸に刺したら死ねるのだろうか、でも絶対痛いだろうなぁ」と考えている。
六年前に自死した母のことを、私はこれまで賛美するように書いてきた。
書いてきた想いに嘘はない。あの母が私の母親であってくれて良かったと思っているし、幸せな思い出はいくらでもある。だが、そればかりでは不足であり、矛盾は消えない。
賛美されるようなことばかりの人間ならば、自ら死ぬ必要はそもそもなかったはずだ。それに、たとえば母が完璧な母親だったのであるならば、現在進行系で自己肯定感の低さや生きづらさに苦しむ私自身に、説明がつけられない。
たとえば、互いに買った本の貸し借りをしたとか、夏祭りの日に浴衣を着付けてもらったとか。よくよく振り返ってみると、幸せな記憶と呼べるものはたいがい私が中・高校生になってから成人した後の期間に集中していると気づく。
一方で幼少期は、がんばって思い出そうにも、記憶自体がそもそも欠けているようだ。何度か家族でディズニーランドに行っているはずなのだが、そのときの光景もどうやら残っていない。かすかに存在するのは、苦い記憶ばかりだ。
レディコミに夢中で私の話を聞いてくれない母。朝から独りパチンコに行ってしまう父。祖父の葬式、遺産相続で揉める父と母の兄。イライラした母に連れて行かれた初めての映画館で、有無を言わさず観せられたのは主人公が女性バージョンの座頭市だった。
血に塗れたその映画は、きっとトラウマになったのだろう。私は大人になるまで映画というものを避けていた。ここ数年でようやく、好きなドラマの劇場版が公開されたら観に行くぐらいはできるようになったけれど。
町中で「ママ~」と一生懸命呼びかけているのに、無視されたりあしらわれたりしている子どもを見かける。“ママ”はスマホのタップとスクロールに夢中だ。この子どもに、あの苦い記憶の中に浮かぶ私を重ねてしまう。
ただ、話を聞いてほしかった。ただ、一緒に遊んでほしかった。かわいい服をきれいに着せることができたシルバニアの人形を見て、一緒に「かわいいね」と言ってほしかった。パチンコとか言うよくわかんないところになんて行かないで、私と庭でかけっこをしてほしかった。
幼稚園から小学二年生にかけて、ずっとわけもなくほぼ不登校児だった私。あれは、少しでも親にかまってもらえる時間を増やしたかったから、だったのだろうか?
パチンコで勝ったお金で買ってきたケンタッキーは、父の自己満足に浸されておいしくない。
あの頃は、きっとみんな疲れていたのだと思う。私がある程度大人になったから言えることではあるが。
あの頃の家には、母方の祖父がいた。認知症だった。母はすでにうつを患っていたようだし、なおかつ幼い私をワンオペで育てながら祖父の介護もしなければならなかった。父は父で、義理の家族との同居は気を遣っただろう。
だから母はレディコミに没入して自分を保っていたのかもしれないし、父はタバコやパチンコで発散するしかなかったのかもしれない。
祖父が亡くなり、家を出ていかなければならなくなって、家族三人引っ越した。その頃から母はレディコミを買わなくなったし、父は禁煙してパチンコにも行かなくなった。
身近な人の死に「悲しみ」と「安堵感」を同時に抱くのは、まったく珍しい話じゃない。むしろ当然と言っていい。私が母の死を契機に少しばかり生きやすくなったのも、きっとこういうことだ。
だが、たとえ家族が穏やかさを取り戻しても、苦しみと寂しさの中に取り残されたあの私は救われない。遅すぎた。二度と戻ることのできない過去の中で、「女の子」は今も包丁の柄から手を離せないままでいる。
何かの欠落を感じることがある。特に強く感じるのは、人から何かプレゼントされたときだ。誰に何をもらっても、心から「嬉しい!」とも思わないし、「いらないなぁ」とかすらも思わない。ひたすらの無。心が微動だにしない。
かろうじて「ありがとう」をひねり出す。
これは包丁のせいなんだろうか?
私がただの人間であるのと同じように、母は母である前に完璧ではないただの人間だったし、父もまた父である前に完璧ではないただの人間だった。そんな当たり前の事実にようやく合点が行く。
きれいごとを書き並べるたびに、実はどこか心が痛んでいた。それはきっと、「女の子」がその包丁を私の胸に突きつけ、ここにいる“私”を無視するな、今お前がやっている行為はあの頃の両親と同じじゃないか、と叫んでいた証拠なのだ。
良い面ばかり見つめることは、愛することとイコールじゃない。美化・理想化をやめることは、一歩前進することに等しい。
昔から、疲れていると鏡に写った自分がまるで自分じゃないかのように感じる瞬間がある。“離人感”とか言うらしいが、もしかすると、そのとき鏡に写っているのは「女の子」のほうかもしれない。
こんな幼少期じゃなければよかったのにね、と思っても、戻れないし、変えられないし。でも、この欠落の象徴たる寂しがり屋の「女の子」が表現において強い力を発揮するというならば、むしろ私から肩を組み、抱き合い、語り合い、ともに生きていくのが結局は良いのだろう。
その道の先で、「女の子」はやっと包丁を手放せるかもしれないから。
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【お知らせ!】
無名人インタビューというものを受けました。ぜひに!
良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。