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【まちあるき】篠崎界隈を歩く

東京都江戸川区、都営新宿線の篠崎駅。
駅の開業は都営新宿線が船堀から延長された1986年9月。その時点では篠崎は終着駅だった。
当時駅周辺はまだ開発も進んでいなかったが、駅ができたことでその後住宅地として発展することになる。
当時の地図と現在の地図を比べると、まだ「すき間」が多いことが見て取れる。

篠崎駅ができる前(左)と現在の比較(今昔マップ on the webより)

明治期まで遡ると、篠崎駅周辺は水田地帯。
現在からは想像できない景観が広がっていたはずだ。

明治36年の篠崎周辺(左)と現在の比較(今昔マップon the webより)

明治当時はまだ篠崎村で、昭和7年に東京市に編入され、江戸川区となった。
明治期の地図では江戸川に沿った街道沿いに「上篠崎」「本郷」「下篠崎」などの集落が見られるがいずれも小ぶりだ。
この周辺を歩くと現在でも比較的大きな家や、立派な庭木をもった家が多いことに気づく。
旧集落はいわゆる自然堤防(※かつての河川の氾濫で土砂が堆積した微高地)に立地しており、周囲は後背湿地(※自然堤防の背後に広がる水はけの悪い湿地)や氾濫平野(※河川の氾濫でできた低地)が広がり、こうした場所は明治期までは水田として利用されていたことが地図からも見て取れる。
現在ではこうした低地も盛土されており、自然堤防と区別がつきにくい。

かつての集落から江戸川堤防に向かっての景観。堤防に向けて高くなっている

明治期に集落があったあたりを江戸川に向けて歩くと、上り坂となり、その坂の上に当時から残る篠崎街道が走っている。
篠崎街道は戦国時代には行徳塩田から岩槻城まで塩を運ぶんだ道だったようで、「岩槻道」と呼ばれていたようだ。
現在の江戸川は堤外地に立派なグラウンドが広がり、かなり広く感じる。

江戸川。下流側を見る
同じく江戸川。上流側を見る
堤防上から旧集落を見る
戦国時代から残る篠崎街道
この辺りは明治期の地図では「本郷」となっており、篠崎村の中心地だったようだ
かつての「本郷」あたり。薄オレンジ色が自然堤防の部分(地理院地図より)

街道を南下すると親水公園的な光景が現れる。
これは「本郷用水」。用水不足による干害や塩害を救うために整備されたが、その後の都市化に伴って生活水路へ形を変え、下水道整備で排水路としての役割を終えた。
現在は親水緑道として整備されている。

本郷用水親水緑道
左側の地図は昭和40年当時。「下篠崎町」と書かれた北側に東西に流れる本郷用水が見える。まだ周辺には水田も多かったこともわかる (今昔マップ on the webより)

篠崎街道をさらに南下して、京葉道路を越えたあたりにかけても、明治期の地図では「中圓師」「前圓師」といった集落が見られる。
この辺りは地形的には自然堤防でなく砂州(※海岸沿いで沿岸流や波により砂が堆積した微高地)になっているのが興味深い。
自然堤防が川の働きであるのに対して、砂州は海の影響でつくられた地形だ。

薄黄色は自然堤防。肌色の部分は砂州。京葉道路より南側は砂州になっている。砂州を横切るように旧河道(※古い川の流れ)があるのも興味深い。(地理院地図より)

このあたりもまた、大きな敷地をもつ家やお寺など、古い集落の名残がぽつりぽつり見られる。

古い石碑。詳細は分からなかった
明治期から残る道。当時は「前圓師」という集落があった。道の右側には旧河道があるが、現在では全く分からない

篠崎界隈は初めて歩いたが、想像以上に静かな住宅街で、あまりごみごみしておらず住みやすそうな町という印象(ただ江戸川区全般にいえることだが、ほとんどが低地なので水害リスクはあるのだけど)。

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