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いいなづけ(読書感想文)

コロナ騒動が本格化し始めて暫くたった3月初旬頃、この本を薦めるイタリアのとある校長先生についてのネット記事を読んで、すぐに購入した。

長々と読んでようやく先日読了したので、日記代わりに読書感想文を記そうと思う。
読書感想文だなんていったい何十年振りに口にするキーワードなのだろう、という懐かしい感を持ちつつ。

まず、今回読んだ『いいなづけ:マンゾーニ著(1827)』は一般的に『神曲』とイタリア文学の双璧をなすと評されているそうだが、不勉強な私は教科書などに度々登場する『神曲』のみ知っていて、こちらの方はこの歳になるまでその存在すら知らなかった。むしろ今回の騒動とそれを受けたこの本への推薦記事がなければ、これからも知ることがなかったように思う。改めて本との出会いは運命なのだなぁと感じる。
ちなみに『神曲』には、高校時代に文語調の翻訳版を「ジャケ買い」してしまい、読み進めるのに苦労したという多少苦い思い出がある。
(※何百年も前の作品にこんなことを言うのはアレですが、一応「ネタバレありの感想」なので、これから読む予定のある方はご注意を。)

(聞かれてもいないのにいきなり語る)自分にとっての「読書論」

私の中で本を読む、特に古典文学を読む感覚は、「冷静かつパーマネントな友達」に会う感覚にほぼ等しい。
これまでの人生で一番読書をしていた時期は中学~高校~大学時代だったように思うが、その頃(今もだが)は、あまり地に足を着けて世の中に存在することができておらず、常に自分の感情に振り回されて生きていた。だからことある毎に静かな場所で落ち着いて頭を冷やす必要があった。
そしてその時決まって私は、冷静で静かな「誰かの語り口」を欲していた。
ここでいう「場所」は言うまでもなく、物理的に身を置く場所とは異なる、精神的に退避する場所のことである。だから、主に電車や教室は多くの場合私にとって「非常に静かな退避の場所」であった。

これらの「友達」は常に献身的で、私がどこに行こうともいつも鞄の中にいて、何度私がしつこく「聞き返す」ことがあっても決して嫌な顔ひとつしなかった。(ここが極めて重要であるが)嫌な顔をしないことが分かっていた。
また多くの場合、ある程度想像の余地を残す形で静かに語ってくれた。思想や表現・内容がショッキングなものも少なからずあったが、それらも文字表現の形をとると、私にとっては少しずつ染み入るように感じられた。
加えてその「友達」には数多くの「共通の友人」がいた。音楽であったり、演劇であったり、さらにはその本より後に書かれた本や、現代のコラムにその本が引用(もしくは前提と)されることは枚挙にいとまがない。これらを知ることで、私は脳内で「一方的な友達」を増やしていった。
蛇足ではあるが、実際に会い・話すことがないのなら、現在実体を持っている実在の人物も脳内の存在(過去の人物含む)もまったく変わらないように私は思う。

また、本がたとえ手元になくても頭の中でその一遍・もしくはそこからの展開を反芻することは、色々な意味で私を自由にしてくれた。
今でも読書は私にとって合法的で健康的なトリップの手段のひとつである。(知人によく指摘される「ぼんやり」の一因になっている自覚もまぁ、ある。)

長々と語ってしまったが、だからこの災禍の折「古典文学の中で少し静かに過ごしたい」と思ったのは、私にとって何ら不思議のないことと言える。

さらに蛇足ではあるが、「パーマネントな友達」という意味では子供時代に相当入れ込んだ「ドラえもん」が自分の中では最たるものなのだが、彼は「感情をぶつけ合い・感動を分ち合う友達」としての位置付けであり、「冷静な」という枠には決して当て嵌まらない。それが彼の魅力である、と私は思っている。
このあたりのことはいつか記事にするかもしれないし、しないかもしれない。

話の概要

まずもってお伝えしたいのは、文庫の帯であるとか、コラムの推薦文から「過去のペストを話題にした作品を通して現在の災禍についての新たな視座を得る」といったニュアンスを多く読み取れるのであるが、この物語は「ペストをメインにした話」では決してないことである。
勿論、ペストの流行にかかる部分はこの物語の重要な転機のひとつであり、私たちに多くのヒントを与えてくれるのであるが、それは上・中・下巻とある中の下巻の中盤以降の話であり、むしろ多くの部分が主人公であるレンツォとルチーアの婚約から結婚式の延期・決着までの話とそれに関わる様々な登場人物の人間模様についての話である。

それらが俯瞰的かつ、温かみがありつつも、ある意味シニカルな視点で描かれるために、一種の旅絵巻を見るような感覚で物語を追うことができる。

魅力的な登場人物

登場人物皆に人間味があることもこの作品の大きな魅力である。
彼らの持ち合わせる数々の性質が私たちの中に少ずつ存在するものであるからこそ、彼らは物語を回すための装置を超えた「生身の存在感」を持っている。

アッポンディオ司祭の小物然とした振る舞い、ペルペトゥーアやアニェーゼの世間知にたけた様子は現代においてもなお多く見かけるものであるし、
フェデリーゴ・ボㇽロメーオ枢機卿やクリストフォーロ神父の高潔な精神・態度はそのまま再現することはならずともこうありたい、と願う者は多いはずである。特にクリストフォーロ神父の過去の話と終盤のペスト避病院におけるルチーアとの対話を通して彼女に大切なものを託すシーンには不覚にも涙してしまった。
「あまりに極悪すぎて名前を記載するのも憚られる」と紹介されるインノミナートでさえ、その悪事への改悛に至るまでの罪悪感などは大なり小なり誰しも身に覚えのあるものであろう。
失った青春を持て余したようなジェルトゥルーデには、多少鬱屈した青春時代を送った者であれば恐らく私と同じような気恥ずかしさを伴った共感(もしくは同族嫌悪の感情)を覚えるかと思う。

庶民代表とも言えるレンツォに至っては言うに及ばず、とても共感する要素が多い。難しい(が、自分の人生に深く関わりがある)事柄が自分の頭越しの空中戦で決定されて行く様子を悔しい気持で見守るが、分からないなりの開き直りと気概を見せようとするところなど、非常に自分の姿に重なる。
まぁ現代は知識を収集する土壌には恵まれているから、開き直りは程々にして理解できることを増やしていきたいと思っているが、どうしても私は、自分の無知と怠惰に負けそうになってしまう。ここは私が明確にレンツォに劣る点である。
ルチーアの頑なさ(ともすれば融通の利かなさ)は多少理解できるものの、ある意味で彼女が一番私にとって共感できる部分が少ない人物かもしれない。
あのような清純な心を持ちたいものだが、恐らくもう叶わないのだと理解している。

現在の災禍にわかりやすくリンクする部分

まぁここが、私が最初にこの本を手にとったきっかけであり、(存在するかは分からないが)この記事を読む殆どの方が気になっている点であろう。
なので、その部分を先に紹介して、後に私の心に残った個所を紹介していく。

◆戦争と飢饉の影響でパンの価格が非常に不安定になり、米騒動ならぬパン騒動が起こる場面

 「政府の苛斂誅求」から始まり、「後手後手に回る政策」・「死文と化するルール」・「不正」・「騒いだり、不平を言うことそのものが目的になってしまう烏合の衆」。
 これらの要素は数百年前の混乱について記載された事柄であるが、特に工夫することなくここ暫くの描写にも当て嵌まってしまうのが何とも示唆的である。
 
 数百年・数千年継続して生きている訳ではなく、都度死んで新たな個体が生まれるという私たちの性質上、人間存在自体の劇的なアップデートがなされないことは多少致し方ないにしても、先人が死にゆく前に残した多くの文献があるのだから、そこから学ぶべきを組みとって、0.001歩ずつでも良いから前に進んで行きたいなぁと思う。
 でもまぁ相対的に見れば今の私の置かれている状況はこの本に書かれている時代に比べれば格段に守られているのだから、
 政府も含めて色々な方に私は感謝すべきだな、と思う。

◆ペストが蔓延する場面

 「正常性バイアス」・「疑心暗鬼」・「噂の蔓延」またもパン騒動に続いて、悲しくも現代にそのまま当てはまるキーワードの数々、、
 ペストを「塗って」拡め歩くとされた「塗屋」の存在。こうして読むと非常に馬鹿馬鹿しい迷信なのだが、私たちは昔から陰謀論が好きである。
 自然や環境が無為に移り変わって、それに為す術なく流されることを認めるよりも、手っ取り早く納得できるストーリーを得たいと思う心理が
 私たちの奥深くに存在するのだと思う。

 そしてこの本で描かれる事象で、今はまだ健在化していない事象もある。これらが起こらないように手立てを講じることが必要である。
 (が、悲しいことに庶民である私が具体的に取り得る手立ては自衛位しか思いつかない。何か思いつくものがあれば追記したい。)

 まず、この本では死体収容人達が自らの安全を顧みないことを担保に自暴自棄な強権を行使する様が描かれるが、私自身は非常に恵まれたことに、主体としても客体としてもこれに類似した「自暴自棄な無敵の人」の存在を実感する場面に未だ遭遇していない。
 また現代では感染者への差別が取沙汰されているが、この本では感染が猖獗を極め過ぎたために、感染者の方が殆ど多数派になってしまい、
 現代程の差別は見受けられない。

無記なる私たち

人物紹介の項でも紹介した「極悪すぎて名前を記載するのも憚られる」インノミナートがルチーアの祈りに心打たれ、フェデリーゴ・ボㇽロメーオ枢機卿の愛に包まれて劇的な改心を遂げるシーンは、私にとって<『カラマーゾフの兄弟』の中でアリョーシャが大地に接吻するシーン>ばりに印象的であった。
若い頃の私は、こういった西洋文学で見かける「圧倒的な許し」に対して割と不寛容であった。例えば『ファウスト』のラストシーンにもあまり納得が行っていなかった。正直「さんざん好き放題しておいてそれか。」とさえ思っていた。
だが、歳を重ねる毎に考えが変わってきた。いわゆる「カルマの帳尻合わせ」を個人の現世における一生の中で必ずしもやりきらなくてもよいのではないか、と思うようになってきた。私という個人も他人も自然環境・世間も合わせて混然としたひとつの無記なるもの(善でも悪でもないもの)で、そのときの自分の主観によって無限に色を変えて投影されているだけなのだろう、というのが最近の私の理解である。
だから、インノミナートのかつての悪事であるとか、レンツォとルチーアの受難の元凶となったロドリーゴの不正であるとかそういったものは、「引き取り手」を失って居心地悪くどこかをさ迷っている訳ではなく、無記なる歴史の営みの一部として吸収されたのだと思う。
まぁ私自身も歳をとって「許してほしいこと」が増えた、という事実もこの考え方に無関係ではないはずだ。

雨のシーン

最後の大団円は伏線の回収というか予定調和であるゆえ余り言及する必要はないが(決して「つまらない」という意味ではい)、万事が片付いた後、レンツォが雨の中故郷の村に向かうシーンが大変印象的であった。
この大雨によって、ペストは文字通り「洗い流される」。

随分昔の学生時代、私は雨に濡れて歩くのが好きであった。服を着たまま水を纏う非日常感・「洗われていく」感覚。この状態が永遠でないと自覚しているが故の少しの背徳感と誇らしさを混ぜたような気持ち。
特に下校時にゲリラ豪雨に見舞われた際はこの感覚が顕著であったため、私は心ひそかにゲリラ豪雨を歓迎していた。

この帰郷のシーンは私にそんな時代のことを思い起こさせた。肌に張り付く綿布の感触であったり、合皮の革靴の中で水が躍る愉快な音や様子だったり、がリアルに脳裏に蘇った。
ここでレンツォが「どこかに出かけていく」のではなく、「故郷に向かっている」という要素は、私の感情のシンクロに大きな役割を果たしているのだと思う。

そんなノスタルジックな気持ちに影響されて、幾分楽観的ではあることは自覚しているが、この災禍も少しずつ洗い流されていくような気がした。

蛇足

再三の蛇足ではあるが、冒頭に「二大双璧の片方」として紹介した『神曲』について、この『いいなづけ』を翻訳された平川祐弘さんのバージョンがあるのを見つけた。もちろんすぐに購入してしまった。〇十年の時を経て再び読むのが楽しみである。今度は口語体なので大丈夫なはず。

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