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私が母と縁を切るまでの道のり:2


前回、私が母と縁を切るまでの道のり①を書きました。
今日はそのづつきです。

本題に入る前に、なぜこんな記事を書いているかというと、
世の中には親のことで悩んでいる人が結構多いな〜と感じているから。
私のように機能不全家族の中で育ったアダルトチルドレンや
毒親を持ったために嫌な思いをしたり、苦しんだりしている人たちに
少しでも役に立てばいいなと思いこの記事を書いてます。

父の再婚で母と生活することになった私。

母とは実際に一緒に住んだわけではない。
母はすでに愛人と暮らしていたので、母の住まいの近くに私の部屋を借りた。
高校生から一人暮らし。
でも毎日私の分の食事を部屋に届けに来てくれたし、掃除や洗濯もやってくれた。
私は母と生活するようになってから、気がついたことがある。

この人、掃除とかできるんだ。

なせなら一緒に暮らしてた時は、いつも家の中は散らかっていて、
みかねた父親が掃除をしてたから。

愛人と暮らし始めた母は私の知っている母ではなかった。
びっくりするほど人が変わってしまった。
パートナーが変わると人間ここまで変わるんだな〜と
そう冷めた目で母を見ていた。

こんな感じで始まった高校生活。
子供の頃に関わりが無さ過ぎて母にどう接すればいいのか探りながらの生活。
でも何とか3年間やり過ごすことができた。

高校を無事卒業した私は就職のために上京した。

私やっと、自由だ。

母親とも父親とももうあまり関わらなくていい。
なんのいい思い出もない地元を離れられることが嬉しかった。
年に1回実家に帰るというよりも、地元の友達に会うために帰った。

実家といっても、本当の実家は無い。
父は父で新しい家庭を持ち、母は祖母の介護も兼ねて母の実家に住んでいたから。

年々友達は結婚し、地元に残ってる人が少なくなってきたので、
友達に会う機会も少なくなり、実家に帰る足も遠のいていった。

やっと親元を離れて暮らしてから3,4年は
自分の生活で他のことをあまり考えられなかったが、
徐々に余裕もできて楽しく暮らしていた。

しかし、叔母(母の妹)からお金を貸して欲しい、
と度々連絡が入るようになった。
私は信用にてお金を貸した。
正直、そんなに余裕があったわけでは無いけど、
必ず返すからという言葉を信じて。
結局、お金は1円も返してもらえなかった。

お金を貸すときは
「返ってこないと思って金を貸せ」
「あげるつもりで金を貸せ」
ってことだ。

そんなこんなで時が経ち、私が27歳の時に母が脳梗塞で倒れた。
母が倒れたと連絡が入り、翌日朝一で母が入院している病院に駆けつけた。

病院のベットに横たわって寝ている母。

もう今ではこの時どんな感情だっのかも覚えてない。
1週間は母の元に滞在したが、リハビリが始まるので
私は母の元を後にした。

そしてすぐに
治療費、入院費、薬代、車のローン、、、
その費用が重く私に乗りかかってきた。

とにかくお金が必要になったので、
私は父にお金を貸して欲しいと頼んだが、
父は再婚していたので再婚相手の手前
「お前にお金を貸すことはできない」
と断られた。

私は当時働いていた会社の上司に事情を相談し、
銀行や保証協会でお金が借りられないか聞いてもらったが、
何の担保もない私にはお金を借りることは出来なかった。

もう本当にどうしようもなく、絶望に近い状態になっていた時、
父から連絡が入った。
伯母(父の姉)がお金を貸してくれることになったのだ。
正直、この叔母は苦手な存在で、いい思い出もなかったが、
お金を貸してもらえることはありがたかった。

私は毎月の返済をすることを誓い、伯母(父の姉)からお金を借り
母と一緒に暮らしていた叔母(母の妹)に振り込みを済ませた。
その他にも毎月の仕送りを打診され、
そこは弟にも負担をしてもらおうと思い相談したが断られた。

弟にとって母親の存在は小学校5年生の時が最後なのだ。
母親が家を出ていって以来、弟は母に無関心になっていた。
子供を捨てて出ていった母親だ。
弟が断るのも当然なのだ。

もし父の再婚が無かったら、私も母とはそれきりになってた。
だから今更面倒をみて欲しいと言われても断れたと思う。
だって自分は野垂れ死にしてもいいから出ていくと言って出て行ったんだから。
そんな人の面倒を誰が見るもんか。

でも母は私の高校3年間、迷惑な思いしながらも生活をみてくれた。
私はそのことを恩に感じてた。
でも本当なら親が子供を育てて面倒を見るのは当然のことだし、
たった3年間面倒を見てもらったことに恩なんか感じなくてもいいのだ。

私の中の歪んだ正義感が
「これは私がなんとかしなくてはならない」
と思い込みこの状況に耐えることを選んでしまった。

私は伯母(父の姉)に借りたお金の返済と母への毎月の仕送り。
会社員のお給料だけでは足りないので、
夜と週末、近くの居酒屋で働いた。

それからの1年後、母はリハビリを終え、
右腕が少し不自由なくらいまで回復した。

しかし、まだまだ仕事に復帰するのには程遠いので
私は仕送りは続けなければならなかった。

私は毎年1回は地元に戻っていたが、
母が倒れてからは2年くらい戻らなかった。
久しぶりに地元に戻り、母の元を訪れた。
そしてある事に気がついた。

実は母が倒れる数ヶ月前、母は新車のワゴンを買っていたのだ。
そのワゴンが無いのだ。私は叔母に車のことを聞いた。
その時聞いた言葉に愕然とした。

「車は売った」

叔母が放った一言

私は心の中で

ちょっと待っってよ。
私、あなた達からお金のことを頼まれた時に、車は売って欲しいって頼んだよね?
でも体が良くなったら母がまた車に乗るから売りたくないって。

そのせいで私はより多くの金額を借りることになったんだ。
あの時、私のお願いを聞いて車を売ってくれてたら
私は半分の金額だけの借金で済んだのに。

百歩譲って車を売るにしても、一言声掛けて欲しかった。

車を売ったお金が入って来てるんだったら、仕送りの金額だって減らせたし、
私の時間と気力を削ってまでも副業を続けなくてよかったのかと思うと、
叔母と母に怒りが湧いてきた。
でも私はその怒りをどこにもぶつけることもできず、
自分の中の怒りの感情を全部飲み込んだ。

お金を借りるのにどんなに辛い思いをしたかとか、
仕送りや借金の返済のために副業をしなきゃいけなくなったとか
この人たちには私のことを想像することは出来なかったんだ。
共感力が無い母親たち。
こう思って欲しいとか期待しちゃだめなんだ。
期待した私が悪いんだ。
私は自分を責めた。
そして悲しさと虚しさでいっぱいになった。

そしてこう思った。

「お母さん、なんで倒れた時に助かっちゃったの?」
「いっそ、助からないで死んでくれたら良かったのに」

私ってなんでいつもいつも辛い人生を歩まなきゃならないんだ?

つづく。。。


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