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入院した時、家計簿をつけてきて本当に良かったと思った

入院となったら、ただでさえ驚いて、不安になるもの。

そのショックの後に、お金は大丈夫だろうかという心配が来る。

私が家計簿をつけるようになったのは、30歳頃から。親は「こんな安月給で家計簿なんかつけても意味ない、嫌になるだけ」と家計簿をつけておらず、私が結婚した時、「なんか保険入っておいたら?」と言われて、そういうもんなのかと入った。
だけど、もっと早くから家計簿をつけていれば、私は保険には入らなかったと思った。

お金を、あればあるだけ使ってしまい、貯めて備えるということができない人には、保険も一つの選択肢だと思う。でも、自分に代わってそれをやってもらう代わりに、「マージン」を取られるのは当然のこと。
保険は、入っていれば安心で「得」をするものじゃない。

入院したばかりの頃は、まだ自分が何の病気かもはっきりわからず、この先どうなるのかわからないし、入っている保険からいくらおりるのかもわからない。
でも、うちには一家が一年暮らせる貯蓄は囲ってある。これは間違いない。
これが、なんといっても大きな安心になった。

そうした、お金という大きな現実は勿論、家計簿をつけることは、自分の意思を日々大事にしていくことなので、これが入院の時、本当に救いになった。

私は家計簿をつけるようになる前、ただ値段の安いものを買うことが得、買い物を安上げることだと思っていた。
でもそれは、後日もっと安い値段で売られているのを見たりすると、損をした気になったりして、一瞬で吹き飛んでしまうような、実体のない「得」だった。

自分がそれが欲しいというより、「そういうものだから」で、周りやみんなを見て、内心、全く自分の意志に反して、渋々出費してしまうことも多かった。
そして、嫌な我慢をしてその場を一見、普通にやり過ごしたとしても、そういう嫌な我慢って、後から確実に自分の内側から祟ってくるのを感じた。

いつも、「みんながそうだから自分も」、「自分だけだから、これはおかしい」で生きている人は、自分で考えて判断、選択したことに、全く自信が持てず、その結果の悪かったことばかりを、いつまでも時間があればあるだけ後悔に費やすようになる。これは、自分の経験から全くその通りだと思うし、その酷い実例の人も見たことある。

家計簿は、他人にいいカッコをするためにつけるものじゃない。
自分で考え、自分で判断し、自分の希望を知って、叶えていくためのもの。
これは、自分を幸せにしていく、ほんとに楽しい鍛錬。

入院した時、検査の結果が出るまでに半月くらいかかるもので、その間、不安なのは仕方ないとはいえ、ただその不安に任せていたら、今どこも悪くなかったとしても、半月後には間違いなく病気になっていると思った。

病院で、具合が悪くて、検査の結果がまだわからなくて、待ち時間をただ一人で車椅子に座っていると、まー悪いことしか浮かばない。。。
すごく痛いとか、すごく苦しいとか、紛らわしようのない状態なら無理だけど、そうでないなら、少しずつでいいから、できるだけ「良い時間」を過ごすことに意識を向けるようにした。

これは、回復に絶対必要なことで、普段幸せに生きていく上でも、必要不可欠な基本だと確信した。
生きていれば、年老いて、病気になって、死んでいくのが自然で、それは幸せなことでもある。
でも、自分で自分を幸せにしていく意識がなければ、何があっても不幸の種にしかならない。

人間は「群れ」の弱い生物なので、「一般、集団」からはみださないのは、やはり楽は楽だけど、いつもそうしてれば安心とか大丈夫と思って生きていたら、とんでもないツケが来る。

「それの最も規模の大きなものは『戦争』で、個人単位としては、『ボケ』がある。誰でも年老いれば物忘れがひどくなったりするが、人を振り回す悪性の『ボケ』になる」

入院中、そんなことが書かれた本を、病棟の本棚で見つけた。「安定狙い」は、皮肉なことに、最も安定から遠い悲惨な結果を招く。。
芥川龍之介の「トロッコ」みたい。

入院中、しばらく同じ病室だったある人が、その本の通りにどんどん現実が当たっていくのを目の当たりにして、怖くなった。
ナースさんともめた末、転室していったいけど、その本には、その後に起こることも書かれていて、ボケた当人は家族を振り回し、家族は家でみたくないから、施設などに入れたがるが、当人は嫌がって飛び出し、徘徊し、日本は世界的な長寿国だから、そんな状態が延々と続き、ガッポリ入ったはずの退職金も、そんなたらい回しにあっという間に費やされ、多くの税金が使われる。。

ああ恐ろしい。。。
今の病室は、個室じゃなくても、カーテンの仕切りがあって、素晴らしいと思った。手の具合が悪かったので、メモを取ったりはできなかったけど、私はカーテンの中でその本を読みながら、もめながら転室していく隣の様子を聞いてて、その後、なんか本当にその通りになる感じがした‥

何もかも集団に逆らうとか、全く人目を気にしない、へっちゃらというのは、私には絶対できないけど、ここはみんながどうだろうが、他人から何と言われ思われようが、自分を通す勇気を出すべきだと判断した時は、それを選択できるようになりたいと思う。
これは一朝一夕にできるようになることじゃなく、家計簿はまさに、その「鍛錬」の小さな蓄積で、実力をつけられるものだと思う。

そして、これが恐ろしいボケを防いでくれることにまで繋がるとは、ますますやる気になった。

今の状態で無理せずに、自分が自然に楽しい、嬉しい、好き、幸せと思えることを、些細でも積んでいくことの大きさを、実感した。
この意識がなく、他人からどう見られるか、普通はこうだから、だけで、社会にうまく適合しているようなつもりになって生きて来た人は、こうした、病気になって、誰も代わることのできない現実を突きつけられ、自分と対峙しなければならなくなった時、「自分の中に何もない」という、恐ろしいことになると、実例も見て思い知らされた。

写真は、入院中、中庭に出ていいことになった時、見かけた可愛い光景♪
入院中に、親しくなれた人もあった。その患者さんから言われた、好きな言葉

『「頑張り屋」より「楽しみ屋」でいきましょう!』



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