きっかけは、デッドボール
彼は、私にとって、はじめての人だった。
彼との出会いはもう十年も前のことになる。
高校二年生の時、同じクラスになったことがきっかけだった。
「どうも! 石山です! よろしくおねがいします」
教室の一番後ろの席で元気よく挨拶された。運動部らしく腰から綺麗にお辞儀をして右手を差し出すその姿は彼のまっすぐな性格を表しているかのようだった。そこから上目遣いでこちらを見上げるその笑顔はちょっぴり、私のタイプだった。
男子はもちろん、同じ陸上部の友人でさえも私のことを『丹羽さん』と敬称付きで呼んでいる。当時はクラスの委員長をやっていたし、どちらかというと地味な学生に分類されていた。
だけど彼は握手の後
「なんて呼べばいい?」
そう私に問いかけてくれた。
なんでもいいよ、と言ったのだけれど、
「うーん、じゃあ、丹羽(にわ)! 二文字で言いやすいし、その名字好きだわ」
と言い、私のことを唯一、『丹羽』と名字で、呼び捨てで呼ぶ人になった。
話をするのはこの時が初めてだったけれど姉が野球部のマネージャーをしていたこともあり、彼の存在は一年生のときから知っていた。
一年一組、野球部の次期エース。姉の影響もあって家では勝手に『祐也(ゆうや)くん』と呼んでいた。もちろん、教室では『石山くん』と呼んでいたのだけれど、ある日ポロッと「祐也くんは……」と言ってしまった。
慌てて訂正したものの、目の前で祐也くんはキョトンとこちらを見ていた。
「あ、ごめん、いや……つい、姉の影響で……」
「全然いいよ! これからは、『祐也くん』でよろしくお願いします」
人懐こい笑顔と共に祐也くんは下の名前で呼ぶことを、快く承諾してくれた。
そんな私と祐也くんの距離を縮めてくれたのが、一球のデットボールだ。
その日、私は陸上部員としてグラウンドを何周も走っていた。
走路のうち一箇所、ピッチャーとキャッチャーの間を横切らなければならない箇所があった。急に球が飛んできて当たるんじゃないかといつもドキドキしながら走っていたのだが、その恐怖が現実となる。
「あぶない!」
声が聞こえた直後、私の左脇腹に鋭い痛みが走った。思わずその場にうずくまる。
脇腹にデッドボール……。投げたのは、祐也くんだった。
「丹羽! 本当にごめん! よそ見してた。でもって距離感、わかんなくなってた」
「全然! 私の方こそごめん。走りに集中しちゃってた。でも、大丈夫だから」
そう返事をするものの、脇腹の痛みはおさまらなかった。
医務室へ行き、服をめくると脇腹には印を押したかのようにくっきりと、赤黒いアザができていた。
その日以来、席が隣だったこともあって、毎日祐也くんは脇腹を気にして私に話しかけてくれた。次第に私達は打ち解けていった。
祐也くんは、勉強は嫌い、と言って授業中に寝ていることも多かった。当てられる度につついて起こし、解答を教えていた。そのために毎日予習は欠かさなかったと言っても過言ではない。教科書を忘れたときは席をくっつける。いつもより距離が近くてドキドキした。
授業に全く集中できなくて、家に帰って必死に復習をしたのが懐かしい。
「俺さ、今年の予選会で、背番号十一番もらったんだ」
ある朝登校してくると嬉しそうに私に報告してくれた。
二年生なのにピッチャーとして活躍できるチャンスが彼にやってきたのだ。
「おめでとう、頑張ってね」
「おう。予選会、来週の土曜日なんだけどさ、丹羽もよかったら見に来てよ」
「……ごめん、予選会の一回戦、陸上の試合とかぶってるんだ」
彼がみんなに優しいのは重々承知だったけれど、誘ってくれたのが嬉しかった。会話をする度に祐也くんの存在は私の中で特別になっていった。
迎えた土曜日、私の試合結果は散々だったけれど、予想通りだった。
自己ベストが出ただけでもいい方だと思う。それよりも……
「お姉ちゃん! 予選会どうだった?」
家に帰ってきて私が発した第一声がこれだった。
バタバタとリビングへ向かうと、どことなく気まずそうな姉の姿を見つけた。
「咲良(さくら)……おかえり。実はね、祐也くん、怪我しちゃったんだ」
私はその場から動けなかった。
バッターとして打席に立っていた際、相手が放ったボールが左肘を直撃したという。サウスポーの祐也くんにとってそのデットボールは致命的で以後、満足に投げることができず、無理をした結果、肘を痛めてしまったそうだ。
一回戦は味方の援護もあって何とか勝ったものの、予選会の第二回戦は次の土曜日。
祐也くんの登板は絶望的だった。
月曜日、いつもクラスのどこにいるかすぐにわかる祐也くんに、気配が無かった。今までに見たことがないくらい、静かだった。
休み時間も机に座ってぼーっと遠くを見つめている。夏の風が机の上のプリントを飛ばしてもお構いなしだった。
「祐也くん……プリント飛んでるよ?」
「丹羽……俺さ、肘、痛めちゃった。……終わったー! 俺の夏!」
そう言って儚げな表情で笑う。今までそんな顔見たことがなかった。だけど、そんな祐也くんは見たくないと思った。
「祐也くんの……祐也くんの夏は、まだ終わってないでしょ! 怪我は、治る。現に私のお腹、もうアザなんて残ってないよ。同じレベルの、いや、十一番も背負ってない、相手校のピッチャーの球よりすごい球、祐也くんは投げるんでしょ! だったら、肘は絶対治る。それに来年もある。まだ祐也くんの夏は、終わらない!」
すごい勢いでまくし立てた。いつもにない大きな声を出したことでクラスのみんなが何事か、と私の方を向いている。「委員長、怒ってる?」なんてヒソヒソ声も聞こえた。
目の前の祐也くんは、私が初めて『祐也くん』と呼んだときのようにキョトンとした顔をしていた。次第にその顔がくしゃっと変化し、笑い始める。
「……そうだな。ありがとう、丹羽。そんなん言ってくれたの丹羽が初めてだ。みんな、腫れ物に触るみたいだったから。けど、そうだよな。俺にはまだ、来年がある。来年は一番背負って、投げる」
祐也くんの目には再び光が宿っていた。
三年生になって祐也くんとクラスは離れてしまったけれど、廊下ですれ違った時に
「今年は背番号一番、ゲットしたから」
とVサインと共に報告を受けた。大して足が速くない私は五月に部活を引退していたので今年は予選会を見に行くことができる。昨年から続く祐也くんの夏を今年、見届けられる。
――明日、頑張ってね! 応援団と一緒に全力で応援します!
そうメールを送った次の日、七月の一週目の土曜日に、引退した姉と共に予選会を見に行った。相手は去年ベスト四まで勝ち抜いていた私立の強豪校。祐也くんはそんな中、先発としてマウンドに立った。
ストライクもいくつか取った。ヒットだって打っていた。だけど、回を重ねるごとに一点、二点……と相手に点を入れられていく。残念なことに味方の援護はなく、コールド負けで幕が下りた。
試合の後、何と声をかけたらいいのかわからなかった。遠くから見守るしかできなかった。だけど、祐也くんは一年前と様子が違って見えた。彼の目には、まだ光が宿ったままだった。
私と祐也くんを繋げていた『野球』の糸が切れたことにより、話をする機会も減っていった。次第に受験モードに突入し、祐也くんを見かけない日のほうが多くなった。何度かメールを送ってみようと思ったけれど、上手く作成できずにやめた。
大学生になった祐也くんは野球サークルに入り、仲間と汗を流して楽しんでいた。そこでも人懐こい笑顔は健在で、彼の周りにはいつも友人がいた。
……というのも、何の縁だかわからないが図らずして私は、祐也くんと同じ大学に進学することになったのだ。一般教養科目を受けるため、大講義室に入ると目の前に祐也くんが座っていた。再開を果たしたときは恥ずかしくも、運命かと思ってしまった。
スポーツ系の一般教養科目の授業では彼とほとんど講義がかぶっていた。
高校二年生のときのように、真面目に授業を受ける私と隣で半分寝ながら講義を受ける彼。出会ったときからずいぶんと大人になった。かっこよくなった。
もう坊主頭ではないけれど、私の横にはあの頃のように彼がいる。それだけで満足だった。
付かず離れず四年間を共に過ごした私達はさすがに就職先まで同じというわけにはいかず、大学を卒業してからは連絡を取っていない。
だけど、たまたま開いたFacebookで彼の書き込みを見かけた。
――今年の花火大会は八月四日かぁ。丁度その日、ちょこっとOBとして試合に顔出すんだけど、その後誰か、行きませんかー?笑
マウスのスクロールが止まる。
誰か行きませんか、ってことは彼女はいないのだろう。
コメント欄には「一人で行けよ」とか「俺が一緒に行ってやろうか」とか「ドンマイ」なんて懐かしい名前の返信が数件、並んでいた。
私はスマホを取り出す。彼のアドレスも、電話番号も……まだ残っている。今はLINEの時代だけれど、祐也くんがもし、アドレスや番号を変えていなければ、繋がるかもしれない。
祐也くんと私を繋げたのは十年以上も前のデットボール。
あのボールがもしかしたらまだ、私の足元に転がっているかもしれない。
今こそあの球を、投げ返すときかもしれない。
頭の中には左脇腹の痛みや、予選会の時に聞いた音が蘇ってくるような気がした。
当たれ!
デッドボールを狙うなんてピッチャーにあるまじき行為だけど、なりきり、振りかぶって一球入魂。私はスマホの送信ボタンを押した。
ボタンを押しただけなのに、心臓が早鐘を打っている。
数分後、「ピロン」と気が抜けるような音が鳴った。
――Message 石山祐也
平成最後の夏が、私の十年来の思いを乗せた夏が、今、始まる。